美勇伝最高!

 新宿へ向かう電車の中で、「あ、ちょうヤベー!」と思った。梨華ちゃんのウチワを忘れてきちゃったのである。僕という奴は、うっかりハチベエなのだろうか。ウチワは僕の参戦において結構な必需品なのである。梨華ちゃんと一緒に激しく踊りすぎて暑くなったときには涼しくなれるし、梨華ちゃんからの爆レスを期待することもできるし、周りの人たちに対して僕は梨華ヲタ一直線であるということを自然にアピールすることができる。「切ないけど、忘れちゃったものはしかたがないや。取りに帰るのもギガントムリスだし」等と考えた結果、取りに帰らなかった。

 しとしと降る雨がアジサイを喜ばせているのを見て、日本的風流をなんとなく感じながら、東京更生年金会館へむかって歩いていった。更生といえば、僕は更生しなければならないのだろうか。こないだ夢に梨華ちゃんが出てきて、学校の廊下で思い切り説教されたのである。梨華ちゃんは「ふっち君、そろそろ現実を直視しなさい。いつまでも夢みたいなこと言ってちゃだめだよ!」と言った。梨華ちゃんはセーラー服を着ていて、それはそれは可愛らしかった。

 東京厚生年金会館につくと、ヲタたちが入口あたりの屋根のところで蠢いていた。僕は会館の前の国道にかかっている歩道橋の下にしばしの居を定めた。雨はまだ降りつづいている。サダちゃんから定価以下で譲っていただいたチケットを持ってくるのを忘れていたら面白いな、と思いながらバッグの中をまさぐった。青封筒はあり、その中にチケットがしっかり入っていた。僕は深い安堵を感じて溜息をつき、サダちゃんがチケットを譲ってくれたときのことを思い出した。

 サダちゃん「こういうのは、観るべきひとが観なければいけません」
 ふっち「いや、でも、申し訳ないですよ。サダちゃんを利用しているみたいで」
 サダちゃん「いや、気にしないでください。どうかふっちさんが観てください」
 ふっち「ありがとうございます。好きだよ!」
 サダちゃん「僕も好きです」
 ふっち「お金はおいくら支払えばいいでしょうか」
 サダちゃん「クソ席なので、3000円くらいでいいですよ」
 ふっち「そんな! 安すぎますよ。せめて定価でお願いします」
 サダちゃん「わかりました。じゃあ端数を落として5000円で」
 ふっち「わかりました。サダちゃんてば、優しいんだなあ。好きだよ!」
 サダちゃん「僕も好きです」

 すると、会場の入口付近から大きな声が聞こえてきた。人びとが天井にむけて指をさして、その指指は一つのところに集まっていった。僕はそのとき、真ん中らへんの人が圧迫されて怪我をしやしないかと心配した。これ以上集まらないというくらいに人と指が集まると、「美勇伝! ゴー!」という物すごく大きい掛け声が鳴り響いた。道を歩いていたホスト風の男性がいぶかしげに人びとの方を見た。僕はその集団に入らずに歩道に突っ立っていたので、疎外感のようなものを感じた。僕はヲタ失格なのではないだろうか、とさえ思った。

 会場に入った。おしっこをするためにトイレに行く。そこには行列ができていた。待つのは面倒だなあと思いつつ最後尾についた。前の方を見やると、小便器はいくつも空いていた。つまりその行列は大便専用の列だったのである。僕は列から出て奥のほうの小便器に向かった。おしっこをしながら梨華ちゃんのことを想ってしまい、少し赤面した。梨華ちゃんのすぐそばでおしっこをすることが何だか照れくさかったのである。便器の上部に何者かのちん毛が乗っているのを発見した。僕はそのことを不快に思った。息で吹き飛ばそうとしたが、ちん毛は少しなびくだけで飛ばなかった。つまんでしまおうかとも思ったけれど、さすがにそれはやめた。

 トイレを出て、2階席へ向かう。2階についたときには少し息切れしていた。自分の体力の無さにやや失望した。そして最近は走ると胸のあたりのお肉が上下に波打つ。梨華ちゃんはたるんだ肉体が好きだろうか。好きじゃないような気がするので、明日からシェイプアップのために何かをしようと思います。僕はいつも「明日から」と言う。次の日になると、また「明日からやろう」と言う。そして結局は永遠に何もしないのである。でも今回はそうならないように注意したいと思う。

 さて、僕の席はどうやら右端の席だった。僕は端っこが好きなので端っこだったことを喜んだ。席に座って連番者が来るのを待った。サダちゃんはペアでチケットを取っていて、そのうちの一枚を僕にくださったのである。連番者はレン君という名前である。レン君はなかなかやって来なかった。「もしかして来ないのだろうか」と思った。「もしかして僕がもらった青封筒にはレン君のチケットも入っていたのではないだろうか。そうだったら、かなりまずいことになるぞ」。僕は心臓がドキドキするのを感じながらバッグの中から青封筒を引っ張り出した。封筒には会場への案内図が1枚あるだけで、レン君のチケットは無かった。レン君のぶんはレン君がしっかり持っているようである。僕は安心して背もたれにもたれかかった。前方にヲタ芸のTシャツを着た人がいた。背中にはドクロマークがあり、それを取り囲むようにして様々なヲタ芸のポーズがプリントされている。僕はそれを見て、ヲタ芸を憎んでいる人がヲタ芸に対する抗議の意味を込めてそのTシャツを着ているのだ、と思った。だってドクロマークがついているんだもん。胸には「ヲタ芸」という字が大きく書いてある。目をこらして見ると、その上方には「I am」と書いてある。「ヲタ芸」の下にも何か英語が書いてあるが、読めない。「ドクロマーク」、「I am」、「ヲタ芸」という3つの情報から推理して、胸に書いてある文章は「I am ヲタ芸 hunter」であろうと見当をつけた。そして公演が始まると、その人はヲタ芸を誇らしげに打ち始めた。その後の飲み会でレン君は「Tシャツには『I am ヲタ芸 shooter』と書いてあった」と語った。

 僕はレン君と会ったことがないので、誰かが近くの通路を通るたびに、もしかしてこの人がレン君だろうかと思った。たくさんの偽レン君が通った。「もしこの人がレン君だったらどうしよう、ちょっと嫌だな」と思うこともあった。そしてついに本物らしきレン君が現われた。彼は僕のとなりに座った。「あなたはレン君ですか?」と尋ねなければならないと思ったけれど、もしレン君じゃなかったら非常に気まずいことになりそうだったのでなかなか言い出せずモジモジしていると、レン君らしき人が先に話しかけてきた。
 「あの、ふっちさんですよね?」
 「え、ええ、まあそんなところです」
 「サダちゃんから話は聞いています。連番よろしくです」
 「あ、はい、すみませんね、僕みたいな奴が連番相手で。本当はサダちゃんと観たかったですよね。申し訳ないです」
 「ははは、構いませんよ」
 レン君は背の高い優しい好男子だった。「ふっちさんですよね?」と言われたときには、レン君の隣に座っていたメガネっ娘がちらりとこちらを見た。「ふっちさんですって? もしかしてあのふっち君かしら……」と思われていたらどうしよう、好かれていたり嫌われていたらどうしようと思った。その後も、結構かわいいそのメガネっ子はことあるごとに僕のほうを見た。もしかしたらレン君を見ていたのかもしれないが。

 いよいよ公演がはじまり、美勇伝の3人が姿をあらわした。頭にインド的な妙なものをかぶっていて、顔を見ることができないので、誰が梨華ちゃんかわからなかった。「2階席で距離が遠いとはいえ、顔が見えないことくらいで梨華ちゃんかどうかわからなくなるくらいなら梨華ちゃんヲタなんてやめちまえ!」とレン君が言った。うそです。レン君は言ってません。僕が心の中で思ったに過ぎません。3人は舞台のいちばん高いところに立って、インド的なかぶりものを脱ぎ捨て、かわいらしいお顔を僕達に公開した。「梨華ちゃん!」 と僕は叫んだ。「好きだよ! 好きだよ! 大好きだよ!」と叫んだ。するとレン君は「うるさい! だまれ!」と言って僕に右ストレートを打ち込んだ。

 気が付くと会場が紫色に染まっていた。そうである。僕はレン君に殴られたあと、2時間くらい気絶していたのである。レン君は会場のみんなと共に「美勇伝最高!」と叫んでいる。僕は前もって用意しておいた紫色のサイリウムユニクロの黒いバッグから取り出した。サイリウムをうち振りながら「美勇伝最高!」と声をかぎりに叫ぶと、レン君は「うるさい! だまれ!」と言って僕の腹をめがけてパンチを繰り出した。てっきり右ストレートがくるものと思っていた僕は、レン君のパンチをガラ空きのボディに綺麗に決められた。

 気が付くと、とても静かだった。仰向けに倒れている僕の顔を、紫色のサイリウムがぼんやりと照らしている。コンサートは終わってしまったようだ。僕は床に寝そべっていたため、警備員にも誰にも見つからなかったのだろう。レン君には当然見捨てられたのだろう。僕はサイリウムを手に取り、その場に立ってみた。会場は真っ暗で、人の気配はなかった。僕は、紫色のサイリウムを天に突き上げ、「美勇伝最高!」と叫んだ。