思い出のファミコンは何かと申しますと、ドラゴンクエスト3です。これを小学2年生のときにやっていました。
バラモスを倒して裏の世界に行ったくらいの頃でしたが、学校の友達の中島くんが家に遊びにきました。僕はドラクエ3をドヤ顔でプレイしながら「子供ながらにここまできたんだぞ、すごいだろ」みたいなことを心の中で思っていました。そしてトイレに行きたくなった。中島くんに「ちょっと待っててね」と言ってトイレに行きました。
オシッコをして戻ってくると、中島くんはドラクエ3を勝手にプレイしていました。街の中を歩いています。「まあ街の中を歩くくらいはいいだろう。許してあげよう」と思いながら画面をよく見たら、そこはアリアハンという最初の街であり、パーティーは勇者1人しかいない。びっくりした僕は「ちょっと待って、もしかして冒険の書を消したの?」と震える声で尋ねた。中島くんはキョトンとした顔で「え?」と答えた。「ちょっとコントローラー貸して」と言って、リセットをして冒険の書を確認してみると、僕の冒険の書がなくなっており、レベル1の出来たてホヤホヤの書がそこにあった。
そのあと僕は中島くんのことを怒ったのか、笑って許したのか、よく覚えていません。そもそもそんな事件は存在しなかったのかもしれない。夢の中の出来事だったのかもしれない。そのようにして現実の輪郭が、夢と区別のつかないくらいあやふやになっていくことは、ある意味で大いなる救いかもしれない、といま思った。いま進行している悲しみや苦しみに満ちた現実が、将来的にどんどん夢と混ざりあっていくとしたら、僕は心安らかに未来を過ごせるのかもしれない。
でも、現実感覚があやふやなのは、幼い子供のころの思い出だけのような気がするから、大人になって以降の現実はきっと、いつまでも現実のまま心に留まりつづけるんじゃないだろうか、と思いました。なかなか甘くないよな、やっぱり。