その9

 春の太陽は少しずつ空の頂上に近づいてきていた。極度の汗っかきである私は、わき汗が気になり始めたが、まだ大丈夫だろうと思った。暑かったらTシャツ一枚になればいいし、そうすれば汗染みができるほどにはならないだろう。

 白川公園御園座からすぐ近くにあった。公園に足を踏み入れた私は、まずトイレットを探した。トイレットに行って、みっともなく伸びたヒゲを剃らなければならなかった。私がトイレットに望んでいたのは、ヒゲが剃りやすい雰囲気をかもし出していることであった。そして、白川公園のトイレットは、やや広い遊歩道に面しており、洗面所はトイレの入口の外に露出していた。しかし、人通りはほとんどないため、ヒゲを剃るのに問題はなさそうであった。私はちょっとテンションが上がった。やっとヒゲが剃れる。顔が洗える。歯もみがける。

 とりあえずトイレットに入り、おしっこをした。ちんこをつまみながら、私は性欲のようなものをほとんど感じなかった。ちょっと前に漫画喫茶で東京大学物語の遥ちゃんにかなり欲情したはずだったが、どうしてだろうか。太陽の熱で、精液が蒸発してしまったのかもしれなかった。私はいつもの残尿感が膀胱のあたりに渦巻いているのを感じながら、小便器から洗面所へと向かった。

 入口の外に設置されている洗面所は、トイレに面した遊歩道から丸見えであった。しかし人通りは少なかったため、私はあるていどの心の余裕を持って、電動シェーバーのスイッチをオンした。そしたら、けっこう音が大きいような気がした。平日の正午前の公園は、とても静かだったので、電動シェーバーの音はけっこう広範囲に響き渡るように思われた。私は心の余裕がなくなってきた。近くの通路を歩いてくるかもしれない人間たちのことが気になって、鼓動が不自然になりはじめた。若年ホームレスだと思われるかもしれない。あるいはネットカフェ難民か。でもそんなことはどうでもいいじゃないか。私だって将来的にそうならないとも限らないわけだし、というかそうなる可能性がけっこう高いような気もするし、だったら予行演習みたいなものじゃないか。私は電動シェーバーを丁寧に肌に当てていく。その洗面所にはがなく、無愛想な壁が目の前に屹立していた。シェーバーの立てるジョリ音で、ヒゲの処理され具合を確認する必要があったので、ジョリ音に耳を澄ませながら、シェーバーを動かしていく。すると後ろの方から、何者かの足音が聞こえてきた。人が来ちゃった!と思った。善良で模範的な市民である通行人が、私の背中に冷たい視線を送っているような気がし、背中に軽い痺れのようなものが走り、冷や汗が少しずつ滲んできた。しかし私はシェーバーの電源をオフにはしなかった。オフにしたら負けのような気がしたのである。そして私は勝った。見事に剃り上げた。これで、ホームレスになるための第一準備が整ったような気がした。嬉しくもないし、悲しくもなかった。