その15

 場内が暗くなって、前方の巨大な幕が上がっていった。2階建ての和風な一軒家がそこには存在していた。庭でやんちゃしている子供を、和風な装いの梨華ちゃんがかまっていた。梨華ちゃんのちょっと高い可愛い声が耳に入ってきた。胸がドキドキしたが、同時に安らかな気持ちになった。2階の僕の席から舞台までの距離はけっこうあって、梨華ちゃんの顔はぼやけてしまい、のっぺらぼうのように見えた。でもオペラグラスを通して眺めると、それはやはり梨華ちゃんだった。何年たっても梨華ちゃんはかわいいんだな、と思った。僕は梨華ちゃんと、あと何年くらいこういう時間を過ごせるんだろうか、ずっと過ごせたらいいなあ、でも梨華ちゃんは年齢的にもうすぐ結婚しちゃうかもしれない、そうなっても今と同じように梨華ちゃんを応援できるかな、僕の心はその状況に耐えられるだろうか、わからない、将来のことなんてわからない、そのときはそのときだ、今は目の前の梨華ちゃんを感じることに集中しよう、それより大事なことなんて今は何もない、などと思いながら僕は見ていた。

 舞台の原作は、谷崎潤一郎の小説『細雪』で、梨華ちゃんは四女の妙子という女性を演じていた。妙子は、「江戸時代からの名家に生まれて大事に育てられたけど、そんなのあんまり関係ねえ!やんちゃしちゃうぞ!末っ子だし!」みたいな感じの人だった。梨華ちゃんはもともと上品な雰囲気を持っていて、それでいてお茶目なところがあるので、まさにその役にピッタリだった。その妙子ちゃんと交際する男たちのことがやや気になったが、相手役を自分とみなすことで、大丈夫な気持ちになった。また、これは良いことなのかどうかわからないけど、梨華ちゃんの演技からは、相手役の男を愛しているという感じがあまり伝わってこなかったので、そのことも僕の心を大丈夫にさせた。たぶん梨華ちゃんはすごく誠実な人なんだろうと思う。好きでもない人を、心から好きだなんてこと、演技でも思えないのだ。梨華ちゃんは僕のことが好きなのかもしれない。ただ、梨華ちゃんが誰かを愛している様子をたとえ演技でも見たくないという弱い心が、梨華ちゃんの演技が心に響かないようにその扉を閉じてしまった、ということも考えられる。

 梨華ちゃんの出ていないシーンでは、何度となく眠りそうになった。原作の小説を読んでいなかったため、話の筋がよくわからず、そのことも眠気を誘う一因となった。しかし最も大きい要因は、昨日からまったく睡眠を取っていないことだった。まぶたが重くなり、瞬間的に眠ることもあった。梨華ちゃんが出てくるとパッチリ目が覚めた。しかし、梨華ちゃんは多くのシーンで出ていたので、本格的に眠ることはなかった。たまにカクンとなる程度だった。梨華ちゃんは当然、自分のシーンだけでなく、舞台全体を考えて稽古し演技しているわけだから、舞台の全てをしっかり観ることが、梨華ちゃんに対する礼儀であり、ファンとしての責務であるのだ、と思って、梨華ちゃんが出ていなくてもしっかり目を見開き、耳の穴を大きくするよう努力しました。

 舞台は3幕に別れていて、幕間に10〜15分くらいの休憩時間があった。そのときに外のフロアに出て見ると、僕は驚いた。淑女や紳士たちが、フロアじゅうのベンチを埋め尽くし、みんなそろって弁当やおまんじゅうをモリモリ食べていたのだ。こんな光景は生まれて初めて見たので、あわててその珍奇な様子をツイートしたところ、「それが幕の内弁当の由来である」というようなリプライを受け、なるほどなあ、と思った。おしっこをしようと、端っこの通路に入った。通路に沿って並んだベンチにはやはり紳士と淑女がぎっしりと座り、もりもり食べている。その中に1人、ヲタと思われる中年の男性がベンチに座り、所在なさそうにしていた。この人も梨華ちゃんが好きなんだろうなあ、この人が心に抱いている好きって、どんな形をした、どういう温度の、どのような歴史を持つ好きなんだろう、そこにはやっぱり僕と同じように悲しみや喜びが絡み合って存在しているのだろうか、その前を通り過ぎ、おしっこをしながら、そんなことを思った。しかし知らない人の心なんてわかるはずもなかった。そもそも梨華ちゃんヲタじゃないかもしれない。ただの舞台通のおっさんかもしれない。その人のツイッターを見れば全てがわかるかもしれない。「御園座」や「梨華ちゃん」でつぶやきを検索すればアカウントを特定できるかもしれない。

 舞台上の梨華ちゃんは、洋装をしたり、和装をしたりと忙しかった。告知のポスターでは着物を着ていたので、和服しか着ないのかな、と思っていたら、洋服も着ていたので、得をしたような気分になった。そしてある時、これ以上ないくらいおめかしした梨華ちゃんが現れ、ゆっくりと舞を踊った。日本の古い踊りだった。僕には学がないので、その踊りが日本の古い踊りだということしか分からなかったが、着物を着た梨華ちゃんがゆっくりと踊る姿をしばらく見つめていると、時間の流れまでも遅くなったような気がし、だんだん現実感がなくなってきて、別の世界に連れて行かれるような気持ちがした。梨華ちゃんがその踊りを踊っている間、僕は想像した、梨華ちゃんが長い時間をかけて、この舞の稽古や、台詞の暗記などをしている様子を。そしてだんだんと僕の体はその想像の情景の中に入りこんでいき、想像の中の梨華ちゃんから少し離れたところに立っていた。「がんばって!」と声をかけた。梨華ちゃんは僕の声に気付かないのか、そのまま熱心に舞の稽古を続けていた。

 舞台の上に、桜が満開に咲いた。たぶん作り物なんだろうけど、作り物なのか本物なのかよくわからないくらい綺麗な桜だった。その桜の下を四姉妹でしずしずと歩く梨華ちゃんを見ながら、今年はちゃんと桜を見られなかったけど、こんな風に梨華ちゃんと一緒に桜を見られてよかったなあ、梨華ちゃんもまるで桜みたいだ、本当に綺麗だ、どっちが桜なんだろう、見分けがつかないな、と思っていたら、梨華ちゃんがゆっくりと何度もおじぎをして、桜の花びらの舞う中を遠くにいってしまった。梨華ちゃん、また会おうね、舞台観たよって梨華ちゃんに伝えたいよ、喜んでくれるかな、ふみゅう、と思い、放心状態になった。寝不足なのもあったかもしれない。頭がぼんやりしたまま、オペラグラスを返却し、外に出た。相変わらず良い天気だった。公園にいたときよりも強い日光に照らされ、ますます頭がぼんやりした。