その9 すき焼き

 添乗員さんは「15時半にはすき焼きセットがコテージにデリバリーされます」と言っていたのだが、16時半を過ぎても一向にすき焼きセットがデリバリーされない。我々梨華ちゃんヲタ5人は不安に苛まれ、ソワソワし始めた。待ちかねた誰かがすっくと立ち上がって、すき焼きセットが届いていないか調べにいくと、キッチンのところにすでにすき焼きセットが届けられていた。してみると、我々が気がつかなかっただけで、添乗員さんの言うとおり、すき焼きセットは15時半くらいには届けられていたのだ。梨華ちゃん結婚したらどうするか問題で我々がシリアスになっていた時に、無言のうちに届けられていたのだ。どうして一声かけてくれなかったのだろうか。無言でそっとデリバリーするなんて法があるだろうか。どれだけシャイな人間を雇っているのか。そんなにシャイでいいなら僕がここですき焼きデリバラーとして働かせていただきたい。原付免許すら持っていないけどね。てへぺろ

 我々は、梨華ちゃんスペシャルライブが行われる会場に向かうため、17時35分にはバスに集合しなければならなかった。残された時間はおよそ1時間しかなかった。お手洗いや出かける準備のことも考えると、食事に費やすことのできる時間は50分くらいだった。

 我々は急にドタバタしはじめ、すき焼きセットをリビングのテーブルに乱暴に置き、食材を手当たりしだいに開封する。みんながすき焼きの準備をどんどん進めるので、僕もなんか仕事しなければいけないと思い、「それ僕が開けますよ」とか言ってすき焼きの肉が入った重箱のようなものを手に取り、サランラップを剥がそうとした。しかしサランラップはなぜか幾重にも巻きつけられていた。剥がしても剥がしてもサランラップはそこに存在していた。僕はだんだん慌てた。このままだと、サランラップさえろくに剥がすことのできない、ぜんぜん使えない人間だと思われてしまう。僕は「このサランラップ、やたら厳重ですねえ」と笑いながら、必死の心持ちでサランラップを剥がそうとした。だけどどうしても上手く剥がせないから、ついに僕は人さし指を乱暴に突っ込むことによってサランラップに穴をあけ、その穴を力ずくで広げていった。とうとうサランラップを重箱から取り除くことに成功した僕は、しかし得意げな顔は見せなかった。いわゆるドヤ顔というやつは全く見せずに、涼しい顔で静かにその重箱をテーブルに置いた。

 「すき焼きをやれと唐突に言われて、材料と鍋だけ渡されても、どうやればいいのかよくわかりませんね」と言って僕は困り顔を見せたが、Aさんはすき焼きが得意なのか、どんどんすき焼きを進めていく。他の人に素早く指示しながら、ガスボンベをコンロにセットし、鍋に火をかけ、すき焼きの素を入れ、肉をボンボン放り込んでいく。Aさんは明らかに焦っていて、全ての行動が相当に乱雑であったが、鍋の中のものは着々とすき焼きへと近づいていった。肉が焼けたんだか煮られたんだかよくわからなかったが、とにかく肉が食べられそうな感じになったので、我々はどんどんその肉を自分の椀に突っ込んでいった。それから野菜もボンボン鍋に放り込まれると、見た感じだいぶすき焼きらしくなってきた。

 僕はお腹が空いていたが、精神的な何かにより食欲があまりなかった。しかし食べないといけないような雰囲気がリビングルームには満ちていたため、がんばって肉や野菜をつまみ、生卵の入った椀に浸して口の中に押し込んだ。とりわけ美味しくもなかったが、とりたてて不味くもなかった。まあ家庭で食べるような普通のすき焼きだったが、美味しいことにしておいた方がいいような気がして、「あ、いけますね。美味しいですね」と言った。他の4人も、あまり美味しくなさそうな顔で「美味しいですね」というような感想を表明していた。

 50分くらいしか時間がなかったため急いで食べたのだが、急ぎすぎてしまい、20分くらいで食べ終わって時間があまった。「もっとゆっくり食べればよかったね。急ぎすぎてあまりよく味わえなかったね」という雰囲気が漂い、我々はお互いを見つめて苦笑いを浮かべた。そしてゆっくりと身支度をして、梨華ちゃんの七夕スペシャルライブに参戦するためにバスへと向かったのだった。