ふっち君の日記。

石川梨華ちゃんにガチ恋しているおじさんの記録

その15 我々は死んでしまったのかもしれない

 ふと我に返ると、梨華ちゃんは『恋をしちゃいました!』を唄っていた。記憶が薄れているため、もしかしたら唄っていないかもしれない。でも僕の記憶の中では歌っているのだからそれでいいのだ。セットリストを詳しく知りたい人はグーグル先生に教えてもらえばいい。

 梨華ちゃんが歌を唄っているとき、何とはなしに右斜め前のファンを見ると、その男性ファンはすごく楽しそうな笑顔を浮かべながら体を動かしていた。彼は決して高くジャンプしたり奇妙な踊りを踊ったりするわけではなく、手拍子をしたり上体をぎこちなく動かすだけだったが、天国にいるような屈託のない笑顔もあいまって、おそろしく楽しそうに見えた。ステージで歌を唄っている梨華ちゃんと同じくらい、その彼は光り輝いているように見えたので、僕はせっかく約6万5000円も出してこの場にいるというのに、その彼をしばしばうっとりと眺めてしまった。この世の悲しみを全て忘れ、目の前の梨華ちゃんという光に、何の留保もなく身を預けているかのような彼の身体表現を見て、ステージ上でまばゆい光を放っているまるで女神のように美しい梨華ちゃんを見る、ということを交互に繰り返しているうちに、僕の中の現実感はだんだんと希薄になっていった。さっきからあまりにも幸福そうな顔をしている右斜め前の彼は、この世の者ではないように思われてもきた。この世界では不幸なことや悲しいことが絶え間なく起こっているし、汚い言葉はネット上を飛び回っているし、心の中ではみんなが誰かに対して何らかの憎しみを抱いている。不安や恐怖を胸のうちに抱えてない人間などどこにもいない。しかし右斜め前の彼は、そんな世界から全く切り離されているように見えてしかたがなかった。それほどに彼の笑顔と身体からは幸福のオーラが発散されていた。過去には何も悲しいことなんてなかったし、未来には何の絶望も待ち受けていない。そんなメッセージが彼の放つオーラからはひしひしと伝わってきた。

 ここはもしかしたら現世ではないのかもしれない、と思った。現世だとしたら、右斜め前にいるような仏様みたいな人間が存在するわけがない。つまりここはどこか現世とは違う場所なのだ。僕はいつのまにか、死んでしまったのかもしれない。自分でも気づかないうちに。そして天国的なあの世で梨華ちゃんのライブに参戦し、あの世に生きるヲタたちと一緒に盛り上がっているのだ。何の悲しみもなく、ただ笑っているのだ。
 だとしたら目の前にいる梨華ちゃんは何なんだろう。梨華ちゃんも死んでしまったのだろうか。そんな馬鹿な。梨華ちゃんはたくさんの心優しい、地位も名誉もお金もある人たちに愛され、護られているのだから、そう簡単に死んでしまうわけはない。死んではいけない。梨華ちゃんみたいに真面目に、スキャンダルもなくアイドルをやってきて、他人の過ちのために謝罪したりするなど損ばかりしてきた人は、もっと幸せに長生きしなければいけない。梨華ちゃんのような人が報われない世の中なんて僕はぜったいに許さない。もしかしたら、バスツアーの途中で何か大きな事故でも起こってみんな一緒に死んでしまったのだろうか。八ヶ岳の山々がいっせいに噴火して我々は溶岩に呑み込まれてしまったのだろうか。

 そんなわけはなかった。なぜなら僕の中には依然として悲しみや不安が寝そべっていたからだ。それは一見、死んでいるように見えるが、その実はふみゅうとなっているだけであり、死んではいない。しばらくしたらまた必ずゆっくりと起き上がり、黒い液体を噴き出しはじめ、僕を昼と夜とを問わず苦しめるのだ。そのことが僕には不条理なほど明らかにわかっていた。奴はそこにいる。決して消えはしない。僕が死んでしまわないかぎりは。
 右斜め前にいる、瑕ひとつない幸福に包まれた様子の彼を見て、舞台の上の女神さまみたいな梨華ちゃんを見て、しかしここは現世であることを認識せざるをえなかった僕はだんだんと、将来の不安や悲しみに苛まれはじめた。僕はそれらを頭や心の中から振り払おうと、ぎゅっと目を閉じる。奴らは今ふみゅっていて少しも機能していないんだ。今は奴らのことを考えなくていい。忘れよう。僕はこのバスツアーに参加するに当たって掲げたテーマを思い出した。それは、過去の悲しみや苦しみ、未来の不安や絶望をまったく考えないで、梨華ちゃんと過ごす今だけをひたすら楽しもう、というものだった。