その20 シャボン玉


「シャボン玉」 モーニング娘。

 ふと気がつくと、「シャボン玉」という激烈なロックミュージックが流れ始めていた。流れ星のようなイントロから、梨華ちゃんが「愛する人はあなただけ〜」と歌う。本来ならこの「あなただけ〜」に被せてヲタが「れいなだけ〜!」などと命がけで絶叫するのだが、ここで歌っているのは梨華ちゃんであり、「梨華ちゃんだけ〜!」と叫びたいところであったけれども、れいなは3文字、梨華ちゃんは4文字(音)であり、字あまりになってしまうため、ヲタは叫びたいけど叫べないみたいな悩ましいジレンマに陥り、結局は苦笑いしながらモゴモゴと不明瞭な言葉を発することとなった。しかしそのすぐ後に、ヲタの叫びポイントはやってきた。「愛する人はあなただけ〜」を経て、梨華ちゃんは「誰も邪魔させない〜」と険しい表情で歌う。その「誰も邪魔させない〜」の後に、まるでヲタが絶叫するために設けられたような絶妙な空白があり、そこで先ほどの字あまりの鬱憤を晴らすかのように、会場内の90人強のヲタたちは命の限りに絶叫した。「梨華ちゃーん!」と。シャボン玉はちょうど9年ほど前に発売されたシングルであり、そこにいた90人強のヲタたちは、おそらく9年前からこの曲に限らず色んなところで「梨華ちゃーん!」と叫び続けてきたのだと思うと、胸に何か熱いものがこみ上げてきた。僕はあまりにもシャイすぎて、何かしらの深刻な精神病を抱えているんじゃないかとすら疑われる人間であるので、こういうライブとかでは周りがどれだけ盛り上がっていても、自分がどれだけ酔っぴらっていても、「梨華ちゃーん!」とか「好きだぞー!」とか「モーニング娘ー!」とか「ヲイ!」とか「うおー!」とか叫ぶことは全くないのだが、心の中ではどれだけの熱量で叫んできたかわからない。ライブなどの場で一言も声を発しないぶん、心の中ではおそらく誰よりも情熱的に叫んできたという自負が僕にはある。そのような経歴には何の価値もないだろうし、誰も褒めてはくれないだろうが、そんなことはどうでもいいのだ。とにかく僕は誰にも気づかれないところで命の限りに叫んできたし、そのことを少し誇らしく思っている。なぜならその叫びには少しの嘘も混入していなかったと思うからだ。僕の心の中では何のフィルターも通さないまっさらなザラついた叫びが叫ばれていたと記憶している。そしてそれは過去の話に限ったことではなかった。このバスツアーの七夕スペシャルライブでも僕は9年前や5年前と同じくらい、いやそれ以上の魂の高ぶりを感じながら心の中で絶叫した。本当はたくさん言いたいことがある。梨華ちゃんに伝えたいことは山ほどある。梨華ちゃんと居酒屋でサシ飲みして夜を明かしてもまだ足りないくらい、梨華ちゃんに伝えたいことや、梨華ちゃんに訊きたいことがある。ホテルに誘ってセックスなんてしてる暇はないんだ。そんなことしてる場合じゃない。そんなことしたいために梨華ちゃんにちょっかいを出すクソ芸能人たちは一刻も早くこの世界から退場していただきたい。だいたい、梨華ちゃんのことが好きなら、たとえ芸能人であっても、正々堂々とバスツアーに参加すればいいんだよ。僕だったらそうするけどね。どうせお高くとまってるんだろ。俺たちはあいつらとは違うんだって。あいつらと違って俺は芸能人だから、石川と対等の立場だから、ファンクラブには入らないしバスツアーにも参加したりなんかしない。普通に飲みに誘ったりするぜ。俺はお前らとは格が違うんだ。ってなもんだろ。てなもんや三度笠。上等だよクソったれが。だからさっさと退場しろよ。この世界から。そりゃもちろん僕だってそういうチャラついた芸能人みたいに梨華ちゃんとそういうことしたいとは不可避的に思ってしまうのだが、もっと大事なことが僕の心の中にはあった。きっとその場にいたヲタたちも僕と同じ気持ちだっただろう。梨華ちゃんに対する、どんな長編小説も敵わないようなたくさんの言葉たち、色とりどりの思い、そういった簡単には表現できないものを、僕たちは「梨華ちゃん」というおそらく人生で最も大切な一つの言葉に込めて、声の限りに叫んだのである。梨華ちゃんの心に届くことを祈りながら。