ふと気がつくと、「紫陽花アイ愛物語」が始まっていた。長く長く降り注いでた水無月彩る雨。梨華ちゃんは一つ一つの言葉を丁寧に歌い上げていく。心なしか哀愁の漂う、梨華ちゃんの繊細な歌声を聴いているうちに、僕は不可避的に、美勇伝のこの曲が発売された頃の記憶を辿っていくことになった。梨華ちゃんの歌声に導かれるようにして僕は過去の思い出へと通じる記憶の洞窟を歩いていく。暗闇を抜け、とても明るい開けたところに出た。そこはどこかの巨大な駐車場だった。車はほとんど見当たらない。その代わりたくさんの人々で溢れている。僕は美勇伝の握手会に参加するためにここにいるのだと気づいた。この巨大な駐車場で無数の人々が列をなし、握手会の整理券を手に入れるのだ。その日は天気がよく、日陰のない駐車場に並んでいる僕たちを初夏の太陽が容赦なく照りつけていた。額からは汗が滲んでくる。梨華ちゃんと初めて握手をするのに、汗くさくなっちゃったらどうしよう、と思った。本来ならば1stシングルの「恋のヌケガラ」の時に初めて握手するはずだったのだが、同日に大事な試験があったため参加できなかった。よって今回が初めての梨華ちゃんとの握手ということになる。ちなみに、梨華ちゃんとの握手を泣く泣くあきらめてまで受けた試験は落第した。人生はなんて残酷なものなんだと大いに悲嘆したものだが、今となっては「逆に面白い!」と思えて、こうやってネタにできて笑いを取って人気者になって女にモテたりする(モテません)ので、人生における残酷とは、ある種の救いとも言えるのかもしれない。そうはいっても、残酷を残酷なままにしておくと心が死んでしまうから、止むに止まれず、しかたなしに「逆に面白い!」とか思い込もうとしてるようなところもあるし、それはそれで心が擦り切れていきますから、やっぱり残酷なことは最初から経験しない方がいいんだと思います。
僕はそのころ大学生で、モーニング娘研究会というサークルに入っていた。しかし、僕はモーニング娘をなんら研究していなかったし、研究しようという気持ちすら全くなかった。一部の意識の高いメンバーは、勉強会のようなものを開いて研究していたようだが、僕はそれには参加しなかった。僕は梨華ちゃんが好きだということしか言えなかったからだし、梨華ちゃんのことが好きだっていう事実より大事なものはないと確信していたからだ。そして好きだという気持ちを研究する必要はどこにもない。必要なのは、好きだという気持ちを心の中に大切に留めておくことだ。決して壊れないように。研究などということをしたら、心を解剖したり分別なんてしたら、それは簡単に壊れてしまうのだ。僕はどんな人の「好き」も壊したくなかったし、自分の「好き」も壊したくなかった。好きという気持ちはとても単純なものでありながら、同時にひどく繊細で複雑なものだ。単純さと複雑さを同時に持ち合わせているものは、複雑なだけのものよりもっと複雑だといえる。そういうものは、いじったりつついたりしないであるがままに受け入れるより他にしようがない。壊れてしまえば元通りにはならない。
僕はそのサークルの友人数名と駄弁りながら並んでいた。1時間ほどして整理券を受け取った僕らは、握手会の時間が来るまでサイゼリヤでお茶をした。開場時間がせまると、僕らはどこかの黒くて四角いライブハウスに入った。ライブが始まった。友人は天高く推しジャンプをしていた。僕はモジモジしながら、ピンク色の可愛らしい衣装に身を包んだ梨華ちゃんを見つめていた。ライブが終わると、ヲタのみんなは美勇伝の3人が待つ廊下に向かってぞろぞろと並び始める。僕は勇気が出なくて、しばらくフロアをうろうろしていた。あの憧れの梨華ちゃんに手を触れることができて、お話もできるなんて、まったく夢みたいだった。芸能人と握手すること自体、初めてだった。最初の人が梨華ちゃんだなんて、なんだか嬉しいな。さっきからずっと僕の頭はぼんやりしていた。太陽の光を浴びすぎたのだろうか。僕は梨華ちゃんに何を伝えようと、悩むまでもなく、伝えたいことは一つしかなかった。深呼吸していよいよ握手の列に並ぶ。少しずつ列が前進していく。僕の前にはH君が並んでいた。「ふちりんが梨華ちゃんと長く話せるように俺が上手くやるから」と言っていたのだが、彼は梨華ちゃんと長く話しすぎるというミスを犯し、その結果、僕が梨華ちゃんと話す時間はほんのわずかなものとなった。梨華ちゃんと目が合ったかどうかすら定かではなかった。僕は梨華ちゃんの持つわずかな時間に恐る恐る触れながら、震える小さな声で、「あの、梨華ちゃんのこと、大好きです」と言ったのだが、梨華ちゃんの耳にそれが届いたかどうかは分からなかった。僕が強く記憶しているのは、梨華ちゃんが僕の目の前でH君と全くかみ合わない会話をしている姿と、急くようにして僕の次のファンに目を向けた姿だ。僕はずっと待ちわびていた初めての握手がこんな形になってしまって、とても切ない気持ちになった。H君は引きつった笑みを浮かべて申し訳なさそうにしていた。僕はH君を責める気には全然ならなかったし、その資格もなかった。僕らの間にはとくにわだかまりもなく、打ち上げのために居酒屋に向かった。僕は梨華ちゃんと初めて握手できた嬉しさと、うまく気持ちを伝えられなかった悔しさと、梨華ちゃんが僕をほとんど気にも留めていなかった切なさと、僕の手に残る梨華ちゃんの柔らかくて少し冷たい手の感触とで、心の中がしっちゃかめっちゃかになっていた。しかしH君に罪悪感を抱いてほしくなかったし、他のメンバーにも心配をかけたくなかったので、打ち上げの場では笑顔でいるように努めた。しかし段々それも限界になってきて涙が出てきそうになった僕は、「ちょっとトイレ」と震える声で言って席を立ち、トイレの個室に入って声を殺して泣いた。涙はしばらく止まらなかった。トイレットペーパーで涙を拭いつづける。この涙は何によるものなのか、嬉しさなのか悔しさなのか切なさなのか悲しみなのか、よくわからなかった。それら全てが掛け合わさって逆ブラックホールのようなものが体内に発生し、そこから際限なく涙が溢れ出たのかもしれなかった。逆ブラックホールに翻弄され、心も顔もぐちゃぐちゃになっている中、間違いないことが一つだけあった。僕は梨華ちゃんが好きだということだった。とてつもなく。全ては、単純きわまりないその事実一点から始まっていた。「あまり長くトイレにいすぎたら、うんこをしていたと思われそうだな」という考えがふとよぎったが、それは別にどうでもよかった。僕は架空の人間じゃないから、うんこはする。もちろん梨華ちゃんだってする。それでいいじゃないか。むしろ、トイレでめそめそ泣いていたと思われたくなかった僕は、トイレから戻ったら「いやあ、長いうんこが出ちゃってね」と言おうと思った。しかしその後ブログで、実はトイレで泣いていたことを公表したので、僕は非常に小賢しい人間であると言うことができる。