その27 サプライズ通路歩き

 その後、ボードは片付けられ、司会的なおっさんもいなくなり、「理解して!>女の子」のイントロが流れ始めた。梨華ちゃんと言えばこの曲、というポップで可愛らしい曲である。梨華ちゃんヲタである人間は全員、一人の例外もなくこの曲を深く愛好している。会場の94名のヲタはノリノリで体を動かす。ピンク色のサイリウムが春の蝶々のように楽しげに舞う。梨華ちゃんは軽やかなステップを踏みながら歌い始めると、何の前触れもなくおもむろに舞台から降り、客席の通路をゆっくりと歩く。ヲタたちは「うおー!」という歓声を上げ、その体の動きは一段と激しくなる。しかし、誰一人として梨華ちゃんに手を触れようとするものはいない。目と鼻の先を梨華ちゃんが通るのを、この世で最高の喜びを享受しているかのような、はち切れんばかりのニッコリ顔で見つめながらサイリウムを力づよく振ったりするだけである。梨華ちゃんはそんなヲタたちから目をそらしたり体を引くようなことはなく、一人一人としっかり向き合い、笑顔を振りまいている。

 梨華ちゃんは僕たちのことを信頼しているんだ、と思った。手を伸ばさなくても届くところ、目と鼻の先を歩いているからと言って、触れたり、通せんぼしたり、抱きついたり、手をつかんで連れ去ろうとはしない誠実な人たちだ、と僕らのことを信用している。だからこそこうやって客席の通路を歩いてくれているんだ。きっと歩かなくたって誰も文句は言わないのに。

 僕は通路ぎわにはいなかったため、梨華ちゃんがすぐそばに来ることはなかったが、そんな梨華ちゃんの信頼・信用を裏切りたくない、と思った。「きっと他のみんなもそうにちがいない。梨華ちゃんに触れてはいけない、さえぎってはいけない。たとえ今この瞬間、不可避的に頭がおかしくなっても、梨華ちゃんにだけは危害を加えたりしてはいけない、ほんの少しの迷惑もかけてはいけない。ああ神よ! 梨華ちゃんが客席の間を一周して、再び舞台に戻るまで、僕の頭をおかしくさせないでください。お願いします」僕は祈った。

 梨華ちゃんは通路をぐるりと一周し、再び舞台に上がった。神に祈ったおかげか、僕の頭がおかしくなることはなかった。ほっとした。梨華ちゃんの信頼・信用を裏切ることはなかった。そして梨華ちゃんは、「理解して!>女の子」を丁寧に歌い上げ、笑顔で手を振りながら舞台から去っていった。僕も笑顔で梨華ちゃんに手を振った。いつもなら、舞台を去っていく梨華ちゃんに手を振りながら、とても寂しい気持ちで胸が一杯になるのだが、このときの僕は違った。
 梨華ちゃんは今舞台を去っていこうとしているけど、これでお別れじゃない。明日も、ワクワクイベントやらドキドキイベントやらが目白押しなんだ。明日も梨華ちゃんに会えるんだ。一緒にアイスクリームを作ったりできるんだ。
 そう思いながら、余裕の心持ちで梨華ちゃんに手を振っていた。