その35 飯田さんのバスツアーの話

 飯田さんのバスツアーのようなことにならないといいんだけど、と笑いながら、しかし不安そうに阿久津さんは言った。飯田さんの伝説のバスツアーという有名な話がある。バスツアーの前日に飯田さんの結婚および妊娠が発表され、すでに参加の申込をして金を払っていたヲタたちは精神が崩壊した状態のままバスツアーに参加し、最終的には何人かの死者が出た(出てません)、という世にも恐ろしい話である。

 今回のバスツアーのどこかのタイミングで、「大切なご報告があります」などといきなり梨華ちゃんが言い始める可能性はないと言い切れない、何しろ飯田さんという前例がある、しかしそれはさすがに勘弁してほしいものだね、と阿久津さんは語った。他の同室の人たちも「そりゃそうだ。それはさすがにつらい。飯田さんのバスツアーみたいなことだけは勘弁してほしい」と半笑いながらも切実な口調で言った。

 僕も切実になりすぎないように、あくまで半笑いをキープしながら、「それは本当にそうですね。僕はそんなことがあったら、どうしたらいいかわかりません。泣いてしまうだろうし、ちゃんと家に帰れるかどうか。でも、梨華ちゃんに限ってそんなことは決してないと思います。梨華ちゃんはとても繊細で優しい人だから、どんなことをされたらヲタが悲しむかということを、きっとわかりすぎるくらいわかっています」というようなことを言った。しかし、あるいは言葉を発していないかもしれない。心の中で思っただけかもしれない。いずれにせよ、僕は半笑いをキープしながら、何かを言い、何かを思い、ビールを飲んだ。梨華ちゃんは我々をひどく苦しめるようなことはしないだろうと信じていながらも、もし梨華ちゃんがいきなりイベント中に結婚および妊娠を報告したらどうしよう、という不安は心の片隅でぬるぬると動きつづけていた。万が一そうなったとしても僕は梨華ちゃんを責めてはいけないし、好きでいつづけなければならない、という決心の化身のような人型の生き物がそのぬるぬると悪戦苦闘しているのであった。