舞台「だいこん」観劇日記その3 あこがれの寅さん

 結局のところ、僕は精神を安定させる薬を飲んで観劇をしました。時おり、井戸の底に引きずり下ろされるような強い眠気が襲ってきましたが、持ち前のど根性で乗り切りました。僕の隣にいた人は、梨華ちゃんファンと思われるおじさんでした。常にハンカチを手に持ち、ときおり顔を拭って鼻を啜りながら観劇していました。その人も僕と同じ、ガチ恋おじさんだったのかもしれません。僕は場内が真っ暗になったタイミングで素早く涙を拭いました。鼻水は、音が出ないように時間をかけてゆっくり啜りました。だから、泣いていたのはバレてないと思います。

 舞台上の梨華ちゃんは、演技がすごく上達していました。ほぼ完璧な演技で、一度も台詞を間違えることがなかった。他の役者さんがとちっているのに対してアドリブで返す余裕すら見せていました。ただ、完璧+αがあるともっと人の心を揺さぶるんじゃないだろうか、と思いました。梨華ちゃんは、演技が上達していることを除けば、以前と何一つ変わっていませんでした。いつもと同じように、可愛くて清楚で凛として上品でお茶目でした。もしかしたら、熱愛報道なんてものは存在しなかったのかもしれない、と思いました。あの記事はスポニチじゃなくて東スポだったのかもしれない。しかし、確かな現実のかたまりが僕の頭の中にはあり、そのようなifの存在を許しませんでした。そのようなifは、形作られるとすぐ、現実という名のハンマーによって粉々に砕かれました。

 最前列の真ん中らへんで観劇していた僕は、ある時、梨華ちゃんとチラッと目が合ったような気がしました。梨華ちゃんは、「あ、いつもいる人がいる」と思ったことでしょう。僕はいつもいる人でした。いない時もありますけれど。僕は2mくらいの距離から、梨華ちゃんの手の先、足の先まで、細部を一つ一つ見つめていました。梨華ちゃんのどの細部を見つめ、感じても、梨華ちゃんのことが好きだという気持ちが強くなりました。舞台上の梨華ちゃんを執拗に見つめていると、ふと、梨華ちゃんのよく言う台詞が頭に浮かんできました。「あなただけの石川梨華です」という台詞です。ライブのMCでよく言うやつです。舞台の上で、客席の僕と一対一になっている今、梨華ちゃんは間違いなく僕だけの石川梨華なんだ、そう思いました。梨華ちゃんはその場しのぎの嘘を言っていたわけではなかったのです。恋人がいようが何だろうが、いま目の前にいる梨華ちゃんは僕だけの梨華ちゃんなんだと思ったら、固い現実が柔らかくなっていくのを感じました。

 舞台の幕が下りて、梨華ちゃんが見えなくなると、僕はすぐに席を立ちました。舞台に背を向けて薄暗い階段をのぼりながら、「達者でやれよな…」と、楽屋に向かって歩いているだろう梨華ちゃんに向けて呟きました。あ、今の僕は寅さんみたいだなあ、と思いました。あこがれの寅さんみたいになれて、嬉しいなあ。