その12

 銀色の巨大な玉を見飽きた僕は、することもないので、ウォークマンで音楽を聴こうと思い立った。太陽がぽかぽか暖かく、風はふわふわと優しく、絵に描いたような春の陽気だったため、サンボマスターの『春なんです』を聴きはじめた。今ベンチに座っている僕の隣に、梨華ちゃんがいたらどんなに素敵なんだろう、と思った。舞台の開演前の息抜きにでも、ここに梨華ちゃんがやってきたりはしないだろうか。もし目の前を梨華ちゃんが歩いていたら、さすがのシャイな僕でも、声をかけるだろうなあ。梨華ちゃんは笑って、少しの時間、僕とおしゃべりしてくれるだろうか。それとも迷惑そうな顔をして遠くに行ってしまうだろうか。僕は春の陽気と、サンボマスターの歌に勇気付けられ、悲しい想像は空のかなたにおいやり、開演までの少しの時間、僕と笑顔でおしゃべりしてくれる梨華ちゃんを選んだ。

 梨華ちゃんは向かいのベンチに座って、午後ティーを持っていた。薄いピンク色の着物を着ており、とても目立っていたが、周りの人たちは誰も梨華ちゃんに目を向けてはいなかった。午後ティーをときおり口にもっていき、口紅がつかないよう気にしながら飲んでいた。一口飲むたびに、ひとつ息をついて、まぶしげに空を見上げた。
 「あ、梨華ちゃんだ。舞台の前に休憩に来ているのかな」と思い、声をかけようかどうしようか迷った。声をかけたら、せっかくの憩いのひと時を台無しにしてしまうかもしれない。でも、僕はホイミスライムであるのだし、人を癒すことにかけては自信がある。ホイミをかけてあげたら、午後ティーなんかよりもずっと、梨華ちゃんの心身は癒されるにちがいない。僕は意を決して、梨華ちゃんに声をかけた。
 「こんにちは、良いお天気ですね」
 梨華ちゃんは、ぼんやりした目で僕を見て、「え? あ、はい、そうですね」と言って、午後ティーを一口飲み、天気を確かめるような目つきで空を見た。
 「着物、とても綺麗ですね」と僕は言った。
 梨華ちゃんは笑わずに僕の顔を見たが、さっきよりは目の焦点が定まっているように見えた。
 「ありがとうございます。これからちょっと舞台があるんです。今は休憩中なんです」
 「そうですか、お邪魔してしまい、すみません。それにしても、本当によく似合っていますね。そのお着物」と僕はさらに褒めた。
 「そうですか? うれしいです。でも、とても素敵な着物なんですけど、スニーカーを履いて外に出てきちゃって、変ですよね。うふふ」
 梨華ちゃんは、左右のスニーカーの先を交互に上下させ、それを苦笑いで見つめながらそう言った。
 「変と言えば変かもしれませんが、着物とスニーカー、なんとも言えない味わいをかもし出していると思いますよ」と、僕は妙なフォローをして、「ところで、あの、私は向かいのベンチに座っていたので、あなたの様子が目に入ってしまったのですが、だいぶお疲れのようですね。大きく息をついたりして」と言った。
 梨華ちゃんは、「ええ、そうですね。舞台が休みなしでずっと行われているので、少し疲れちゃったかもしれません。まだ先は長いので、弱音を言うのは早いんですけど」と言って、力なく笑った。そんな梨華ちゃんを見ていると、僕の中で、ホイミしたい気持ちが高まってきて、「あの、ホイミしましょうか?」と、たまらず尋ねた。
 「え? なんですか?」と梨華ちゃんは、目を見開いてそう言い、口がやや開いたままになった。「よかったら、ホイミしましょうか」と僕はもう一度、消えそうな声で言うと、俯いてしまった。
 「ホイミ、って、確か何かのゲームの…?」
 梨華ちゃんは、眉間に少し皺をつくりながら言った。
 「そうです、ドラクエの、ホイミです。僕はそれが使えるんですよ。すごいでしょう。いかがですか」
 梨華ちゃんホイミを知ってそうな様子だったので、少し元気が出て、やや胸を張りながら言った。
 「じゃあ、お願いしようかな。せっかくだから」
 梨華ちゃんは、午後ティーを一口飲んで、僕の背後の空の方へ視線を向けた。僕はそこに何かあるのかなと思い、振り向いたが、青い空と白い太陽が浮かんでいるだけだった。雲はほとんどなかった。
 僕が「じゃあ、ホイミするね」と言いながら振り向くと、もうそこには梨華ちゃんはいなかった。梨華ちゃんが座っていたベンチには、午後ティーの缶だけが置いてあった。僕は、梨華ちゃんが座っていたところに座り、午後ティーの缶を手に取った。梨華ちゃんの体温を尻に、午後ティーの冷たさを右手のひらに感じながら、その午後ティーの残りを飲むべきかどうか少しだけ迷ったのち、飲むことを決断した。冷えた午後ティーが喉から胃へつるつると下りていくのを感じ、梨華ちゃんと間接キスしてしまったことを思った。僕はその邪まな唇でもって、心の中から搾り出すようにしてホイミを唱えた。これで、梨華ちゃんの心や体が回復したらいいのだけど。