その13 七夕スペシャルライブが始まろうとしている

 公民館のような、イベントホールのような施設の駐車場にバスは停まり、我々は続々と駐車場に降り立った。辺りは薄暗くなっており、バスツアーの1日目が終わりつつあることを示唆していた。僕は寂寥感のようなものに包まれながらヲタの行列に混ざり、夕闇にたたずむ謎の建物に向かって歩を進めた。

 謎の建物の中に入ると、係の者がテキパキとヲタを誘導している。僕は「お疲れ様でーす」と誰にも聞こえないような小さな声を発しながら進み、左手にある受付のカウンターが目に入った。そこでは、なぜか再び同じグッズが販売されている。「あれ? 2ショット撮影の後にグッズ販売があったのに、ここでも販売するのか。しかも同じ物を。商売に対する心持ちが真摯だなあ」と思った。受付のカウンターの上にオリジナル七夕クッキーが小高い丘のように積まれていたので、買ってあげないといけないような気持ちが膨らんできた。しかし、パッケージデザインは確かに梨華ちゃんの手によるものだが、クッキー自体は梨華ちゃんの手作りというわけではないから、丘積みになっているからと言ってそんなに感傷的になる必要はないかな、と思った。埼玉の工場地帯の工場でパートのおばさんたちがドヤ顔流れ作業で作ったクッキーであることは確定的に明らかであったため、クッキーそのものにはあまり興味が持てなかった。七夕クッキーは昼に購入した全部セットに含まれており、一つ持っていれば十分だ。そのようなことを思いながら、しばらく受付のカウンターを見つめた後、おしっこをしようと思い、トイレに行って小便器の前に立った。小奇麗なトイレだったので快適に排尿ができたが、いつもの残尿感が襲ってきた。僕は残尿でパンツを濡らしたくなかったから、不自然なほど長く小便器の前で小刻みに震えていた。

 トイレから出て、ライブが行われる空間に入った。200席くらいある感じだった。僕は2ショット撮影の後に引いたクジを確認する。「に − 15」。その席は、前から4列めの中央だった。ちょう近い。いわゆるゼロズレ*1中央というやつだ。というかそもそも最後列が7列目くらいだったので、「すごい! どんなにクジ運が悪くても良席だ!」と思って感動した。

 周りではみんなが着々と戦闘服に着替えつつあった。ヲタたちは地味な色合いの服を脱ぎ捨て、鮮やかなピンク色に包まれていく。だんだん視界が眩しくなってきた。僕はというと、完全に私服だった。制服が指定されているわけじゃないんだから、私服という言い方はおかしいような気がするが、他に適切な表現が思いつかない。なぜ私服にしたかと言うと、これは梨華ちゃんのソロバスツアーであり、参加者が梨華ちゃんヲタであることはわかりきっているから、ピンクTを着て梨華ヲタアピールをする必要がないと考えたためだ。また、あからさまにヲタヲタしく振舞う人よりも、あまり戦闘態勢に入らないちょっとオシャレな人の方が、梨華ちゃんは好ましく思うのでは、とも考えた。もし僕が梨華ちゃんだったら、いかにもなヲタたちに囲まれるよりも、ちょっとオシャレな人々に囲まれたい。自分のファンの人たちが、見た目の気持ち悪い人ばっかりだったら僕はちょっとイヤだ。あまり誇らしく自分のファンを他人に紹介できない。だから僕は「脱オタクファッションガイド」をインターネットで読んで勉強した。人を小馬鹿にしたような偉そうな文章を忌々しく思いながらも。指原の表に釣られて買ったオシャレ雑誌smartも熟読した。smartには、アイドルが「男の人にはこういう服装をしてほしい」と詳しく解説する記事があって勉強になる。そこでアイドルたちが紹介している服装は推しTシャツでも特攻服でもなく、モテキの主人公がしているような服装だったので、「やっぱりそうだよなあ。そうなるよなあ」と思った。私生活ではそういうモテキ的な服装をするにしても、ライブやイベントの時は関係ない、推しTを着るべきだ、という意見もあるだろうが、それだと、せっかく耐え難きを耐えて勉強したオシャレを梨華ちゃんに見せる機会がほとんどなくなってくる。私生活で梨華ちゃんに会う機会なんて選ばれた人にしかないから、我々のような下々の者はライブやイベントの時にしか会えない。僕はやっぱり、勉強したオシャレを梨華ちゃんに見てもらいたいし、「私のファンってちょっとオシャレかも?」って思ってもらいたい。もちろん梨華ちゃんはピンクTシャツにも愛情を感じて喜ぶだろうけど、がんばって勉強したオシャレの方にもっと喜んでくれるような気がしてならない。少なくとも、漫然とピンクTを着るだけよりも、勉強しておしゃれをしている人の方が梨華ちゃんのために努力をしている。そうは言っても僕は千円で買ったスヌーピーやポパイのTシャツを着て達成感を覚えるくらいだから、オシャレベルはまだかなり低く、モテキ的なオシャレベルに達するまでの道のりは長そうだが、梨華ちゃんのためにも一生懸命がんばりたいと思っています。オシャレベル言いたいだけじゃありません。

*1:アイドルの真正面の席で、全くズレがない状態