その14 ライブは始まっている

 みんながピンクTへと着替えていくなか、あちこちで席の交換が行われていた。知り合い同士で連番する*1ためにそれは行われてるようだった。バスツアー参加者94名のうちのほとんどの人が知り合いと一緒に来ており、僕のような一人で来ている寂しい人は数人しかいないため、ヲタは活発に声を掛け合いながらどんどん移動していった。「すみません」と僕に声がかかったら、音席*2などの、よっぽど変な席でないかぎり快く交換に応じようと思っていたが、とうとう声をかけられることはなかった。推し被り敵視*3的な、近寄りがたいオーラがにじみ出ていたのかもしれない。過去の僕は、世界でも指折りの推し被り敵視ヲタであり、大手の梨華ヲタサイトにはだいたいここでケンカを売っていたものだが、今では、梨華ちゃんヲタの数が減少してきたこともあり、梨華ヲタ同士で憎しみ合っている場合ではない、ともに手を取り合って梨華ちゃんを支えていかなければならない、という気持ちになっています。過去のやんちゃな日々については心から反省しています。だから僕の体からは平和的で友好的なオーラが滲み出ていたはずだが、周りのヲタに声を掛けられなかったので、まだまだ推し被り敵視的なオーラが消えてはいないのかもしれないぞ、と自らを戒めた。

 席の交換が終わり、みんなの着替えも完了してしばらくすると、ホールの照明が落ち、舞台の上だけが明るく照らし出された。客席にはTシャツのピンク色がぼんやりと滲み、ピンク色のサイリウムが蛍のように揺曳している。梨華ちゃんが舞台の左側から出てきた。黒いボーダーの白いワンピースを着ている。その下にスラッと伸びている、無駄な肉のついていない、それでいて肉感的な美しい脚を交互に動かして舞台の中央へと進む。肩くらいまでの長さのゆるふわ的にカールした薄茶色の髪がゆらゆら揺れる。僕の真正面、5mくらいの距離に立った梨華ちゃんは、あまりにも綺麗だったし可愛かった。27歳になったというのに、9年前に初めてコンサートで梨華ちゃんを見たときと全く変わっていないように思えた。それどころか、どう目を細めて見ても、目をぎゅっとつぶって目の運動をしてから見ても、梨華ちゃんは今までで一番と言ってもいいくらい綺麗だし可愛かった。梨華ちゃんは目を細めて波うつように笑っている。僕は9年前に初めてモーニング娘のコンサートを観にいったときのことを思い出した。

ここにいるぜぇ!

ここにいるぜぇ!

 僕は『ここにいるぜぇ!』という曲をテレビや有線で耳にして、本当にいい曲だなあと思ってCDを買った。それをCDプレーヤーにセットして聞いたところ、心臓に雷が落ちたような衝撃を受け、アホのようにそのCDを繰り返し聴いた。そしてモー娘のアルバムを集め始めた。ライブビデオをレンタルして観た。画面の中では、とても楽しそうなキラキラしたものが展開されていた。梨華ちゃんの波うつような笑顔。僕はそのライブビデオを1週間のレンタル期間のうちに5回も6回も見たような気がする。僕もコンサートに行ってみたいと強く思った。ローソンチケットでチケットを購入した。保田さんの卒業の前日、2003年5月4日のチケットだった。僕はやはり一人でさいたまスーパーアリーナに行った。まだ明るい時間だった。グッズ売り場に並んで、梨華ちゃんのうちわだけ購入した。梨華ちゃんのピンク色のうちわ。ほっぺたに人差し指をつけてにっこり笑っている。一人だけど寂しくないよ。梨華ちゃんがここでこうして笑っているんだもん。僕は梨華ちゃんのうちわの柄をぎゅっと握った。自分の席のパイプイスに座った僕は、梨華ちゃんのファンであることを周りの知らない人たちに知らせたいような、知られたら照れくさいような気持ちでいて、うちわを表にしたり裏にしたりしていた。裏には赤いバケツに入った犬が所在なさげに写っていた。席はアリーナ席だったが、後ろから数えた方が早いような席で、舞台上の梨華ちゃんは豆粒のようにしか見えなかった。笑っているのか泣いているのかも、巨大モニターを見ない限りわからない。前の人の陰になって姿そのものが見えないことも多かった。その時の梨華ちゃんはものすごく遠いところにいた。

 でもそれから9年経った今、2012年7月7日、梨華ちゃんは僕の目の前に、とても近くにいる。手を伸ばせば届きそうだ。声をかければ答えてくれる。そのことが僕は嬉しかった。だけど同時に悲しくもあった。梨華ちゃんはこんなに近い存在になったというのに、僕はまだ梨華ちゃんに顔も名前も覚えられていないのだ。物理的な距離は縮まったけど、心の距離は縮まっていない。近いのに、遠い存在。遠くて遠い存在であるときよりも、切なさは大きいような気がする。だけど絶望するのはまだ早い。このバスツアーで梨華ちゃんとの心の距離が縮まるかもしれない。僕の名前を呼んでくれるかもしれない。顔だって覚えてもらえる。だってこんなに近くに、真正面にいるんだ。イヤでも僕の顔が目に入る。ピンクTを着てないから逆に目立つかもしれない。いずれにしても、梨華ちゃんの歌を聴いていると、絶望なんてぜんぜん何の力も持たなくなってしまうかのようだった。目や耳から入った淡いピンク色の光が僕のこころに満ちていき、黒い絶望を包み込み、その絶望はふみゅうという情けない声を発して骨抜きになる。僕は笑顔になった。笑顔になっても許されるような気がした。ここでは、梨華ちゃんの歌声が響いているこの空間では、誰にも遠慮することなく笑顔になっていいし、幸せを感じていいんだと思った。それを押しとどめる何物もこの空間と時間にはない。あの黒い絶望たちもふみゅうとなっている。まったく黒い液体を出してこない。梨華ちゃんは歌を唄いながら、にっこり笑って僕の方を見た。僕もにっこり笑った。梨華ちゃんとこうしているとすごく楽しいんだ、幸せなんだよ、何にも悲しくないんだ。梨華ちゃんにそのことを笑顔という方法で伝えたかったし、伝えていいんだと思ったし、僕自身のためにも笑いたかったし、笑うことに理由なんてないような気もした。僕は今、梨華ちゃんと一緒に笑っているんだ。そのときの僕には、その事実より大切なことは何もなかった。

*1:隣の席に座る

*2:音しか聞こえず、演者の姿が全く見えない席。AKBのライブでしばしば設置される。

*3:推しメンが被っているファンのことを、独占欲や嫉妬心から憎むこと。