ある一日

 うちのパパは本当にしょうがない人。ママのことが好きすぎるのよね。きっと私のことより好きなんだわ、いやな人。ママが玄関で靴をはいている。私をだっこしながらパパはそれを切なげに眺めている。ママが「じゃ、行ってくるね」と言うと、パパはママにしがみついた。
 「行かないで梨華ちゃん。さみしいよ。好きだよ!」
 「もう、ふっち君たら、甘ったれなんだから。じゃあ仕事行ってくるからね」
 「そうだ梨華ちゃん、いいこと考えたよ。僕も一緒に行っていい?」
 「だめよそんなの、恥ずかしいじゃないの。あなたは家でやることがあるでしょう」
 「さみしいな……」
 「りながいるから、さみしくないでしょう」
 「そうだね……。ねえ、梨華ちゃん
 「なあに」
 「好きだよ!」
 「もう……わたしも好きよ」
 「うわお、梨華ちゃん!」
 そして二人は熱いキスを交わす。化粧が取れないか心配だ。ママが出て行って玄関のドアが閉まると、パパはなんだか泣きそうな顔になって 「梨華ちゃん……早く帰ってきてね。うえーん」と言った。これが30歳をすぎた男だなんて、信じられないわ。情けないったらありゃしないわ。
 それからパパは私を背中にしょいながら掃除をした。洗濯物をほした。そのあいだずっと、「梨華ちゃん……好き」だとか呟いていた。なんて貧弱なボキャブラリーなのかしら。好きか、愛してるか、それに超をつけるか、それくらいしか言わない。とても小説家とは思われないわ。
 お昼ごはんを食べたあと、私をベビーベッドに置いて、殊勝にも机に向かう。しばらくすると、「あーだめだ。梨華ちゃんがいないとだめだ。書けないよお」という悲痛な声が聞こえてきた。パパったら、ママがいたらもっと書けないくせに、と思って、笑っちゃった。そしてパパが髪をかきむしる音を聞きながら、私はいつのまにか眠ってしまった。
 目を覚ますと、部屋には赤い夕焼けがさしこんでおり、パパは机に突っ伏して寝息を立てていた。まったくしょうがないんだから。少しは書けたのかしら。おまたがひんやりしていて、お漏らししたことに気付いて、大声で泣いた。びええええ。ガタンと音がし、パパがやってきて私のことを抱き上げる。
 「どうしたのりなちゃん。あら、おしっこしたのかな。これはこれは。おむつ取り替えないとね。とっかえっ娘。って知ってる? 映画なんだけど。梨華ちゃんがね、出てたんだよ、それがかわいくてさ、まあいつもかわいいんだけど……」
 早くとりかえてよ、という気持ちで、さっきより大きな声で泣く。
 「あらごめんよ悪かった、りなちゃん。いますぐやるからね」
 パパは紙おむつをもってきて、濡れたのを取り外す。新しいのを優しくつけながら、
 「りなちゃんも、ママみたいな女性になるかなあ。なってほしいなあ。綺麗で優しくて、かわいくてお茶目で、まじめで清純で、そんな女性に。きっと大丈夫だね。だって梨華ちゃんの娘だもんね」
 そこで私は思った、だけどパパの娘でもあるからなあ、あんまり大丈夫じゃなさそうだなあ。それからパパは私をしょってスーパーに行く。ボンカレーと玉ねぎとお肉と人参を買う。
 「お肉スキスキ、カレーすきすき、梨華ちゃん好き好き」と唄いながらの帰り道、携帯がなった。「梨華ちゃん、元気!? そうか、よかった。元気であることが何よりだよ。安心した。お仕事おつかれさま。……好きだよ。え、だから、好きだよって言ったの。なんだよ、つれないなあ、照れないでおくれ。もう帰ってくるの? ほんとに? わーい。早く会いたいなあ。それじゃ、気をつけて帰ってきてね。何かあったら電話してね。助けにいくから。へへへ。なに、それほどでも。うんわかった、梨華ちゃん、好きだよ! へへへ。それじゃまたね。ちゅ〜」
 私はパパのたよりない背中に揺られて、そのうちに眠ってしまった。目を覚ますと、パパの声が聞こえた。カレーのいい匂いがする。
 「ねえ梨華ちゃん、おいしいかい。愛情たっぷりボンカレーだよ。おいしい?」
 「うん、おいしい。なんか、いつもごめんね、家のことやってもらっちゃって」
 「なにをおっしゃるお嬢さん、いいんだよ、梨華ちゃんはお仕事があるんだから」
 「でも、ふっち君もお仕事あるでしょ」
 「そうだけどさ、家事の合間にやるからいいんだよ、大丈夫。そんなことより、今日のお仕事はどうだったの」
 「うーん、まあいつも通りかな」
 「そっか、いつも通りなのが一番だよね。……梨華ちゃん、あのね、好きだよ」
 「なによ、嬉しいわね、ありがとう」
 「へへへ、梨華ちゃんは可愛いなあ」
 「んもう、困っちゃうわ。そんなに見つめられたら食べにくいじゃない」
 「あら、ごめんね。つい見つめちゃった。梨華ちゃんがかわいいから。むふふ、大好きだよ」
 「わかったから、ほら、ふっち君も食べなさい」
 「うん、そうだね。よーし、食べるぞ!」
 二人はボンカレーを平らげた。それから私は離乳食を食べて、お風呂に入り、ベビーベッドに寝かされた。灯りが消える。暗闇の中から、とびきり甘い語らいが流れてくる。仲がいいのね。妬けちゃうわ。聞いているだけで糖尿病になりそう。そのうち私は桃色の眠気に誘われて目を閉じる。そして思う、明日もきっと同じような一日になるんだろうなあ。明日もあさってもずっと。やれやれ、まいっちゃうなあ。