握手会前日

 ふちりんはクラフトワークを聴いている。プップーという車の音が聞こえる。チュンチュンという小鳥の鳴き声が聞こえる。《これがクラフトワークか。これがテクノなのか。テクノってちょっと難解な音楽だなあ》とふちりんは思った。《梨華ちゃんはこういうのが好きなのか。なるほどなあ。僕もいずれは好きになりたい。そして梨華ちゃんと一緒にプップーって言ったり、チュンチュンしたりしたい》。ふちりんはヘッドホンを外して、CDプレイヤーの停止ボタンを押した。

 そして、ふちりんはふりちんになった。
 ふちりんはパンツをはいた。
 ふちりんはズボンをはいた。
 ふちりんはまたふりちんになった。
 「やっぱり穿こう。はいたほうが良さそうだ」と言って、再びパンツとズボンをはいた。

 ふちりんは石川梨華写真集「風華」 [DVD付]が入っているアマゾンのダンボール箱を見つめた。ダンボールに鼻をくっつけた。匂いを嗅ぎながら目を細めた。「ああ、ダンボールの匂いがする」。そして「やっぱりパンツ脱ごうかな」と言った。「いや、やっぱりやめておこう」
 ふちりんはパソコンをつけて、ハロプロテインを読み始めた。「わはは! あるある! こういう奴いるいる! のぼのぼ最高! ちょ、むふふ、川上未映子って。……シヴイさんは面白いなあ。なんでこんなに才能があるんだろう。僕にも分けて欲しいなあ」。ふちりんはパソコンを閉じた。

 ふちりんは腕を組んで目をつむり、明日の握手会について考え始めた。《梨華ちゃん握手できるなんて、嬉しいことこの上ない!》とふちりんは思った。《しかし、梨華ちゃん握手したくなんかない。だって恥ずかしいもの。こんな汚い姿形を見られたくない。ああ、美しくなりたい。しかし、自分が美しくなるための努力をする気はほとんど起こらない。なぜだろう。うーん。面倒くさいのだろうか。梨華ちゃんに愛されたいという気持ちより、面倒くさい気持ちのほうが強いのだろうか。だとしたら、僕にとりついている『面倒クサガリー』は一体どれだけ強力な怪人なのだろう。僕の、梨華ちゃんに愛されたいという気持ちは、世界一と言っても過言ではないのに。ちくしょう、面倒クサガリーめ。どうやってこいつを退治すればいいのだろうか。覚せい剤を使うしかないのだろうか。いや、警察沙汰にはなりたくない》

 ふちりんは目を見開き、すっくと立ち上がり、梨華ちゃんのポスターの前へ突き進んで行った。ふちりんは背筋を伸ばし、精いっぱいの爽やかさで笑い、ポスターの梨華ちゃんの目を見つめた。すると梨華ちゃんの手が前に差し出された。ふちりんがその手に少し触れると、梨華ちゃんはふちりんの手をキュッと握った。《あったかいな、柔らかいな、小さいな、優しいな。うう、梨華ちゃん、僕の大好きな梨華ちゃん!》とふちりんは思った。「梨華ちゃん、好きだよ!」とふちりんは叫んだ。すると顔を手で覆ってしゃがみこみ、「は、恥ずかしい……」と言った。しばらくして顔をあげると、梨華ちゃんの手はポスターの中に戻っていた。