ふっち君の日記。

石川梨華ちゃんにガチ恋しているおじさんの記録

3回目の握手

 昨日書いた自分の文章の不完璧さについてと、今日の握手会について思い悩みながら夜を過ごした。少しだけ眠り、目を開けると、ドブ川のような匂いが部屋に立ち込めていた。《昨日はこんな匂いはなかったのに、どうして今日とつぜん現われたのだろう》と不思議に思った。匂いのもとを探して部屋の中を麻薬捜査犬のようにかぎまわったが、どこなのかはわからなかった。ドブ川の匂いを感じたのはその部屋においてだけだったので、自分の体から出ているわけでもなさそうだった。窓を開けても匂いは消えなかった。

 東京に来ているシヴイさんと会うことになり、上野のハロショに行った。その店の大きな看板は相変わらず色あせていた。シヴイさんは店の隅っこに立ってぼんやりしていた。《相変わらずお洒落だなあ。それに比べて僕はいつもダサいなあ》と思いながら声をかけると、「あ、ふちりん、こんにちは」とシヴイさんは言い、鞄から梨華ちゃんの写真を取り出した。
 「これ、いらないのでふちりんに上げます」
 「わあ、嬉しいです。ありがとうございます。梨華ちゃんかわいいなあ……」
 その写真には「好きな言葉は ハッピィ〜♪ 幸せが一番です!」と書いてあった。
 しばらくして、メロンむしゃむしゃ犬郎さんがやってきた。

 シヴイさんと犬郎さんと僕は、上野の古ぼけた大衆レストランに入った。僕はミートスパゲッティを頼んだ。なぜかタバスコを大量に入れてしまい、とても辛かった。口の匂いについて不安になった。
 「握手会の予行演習をやりましょう」と犬郎さんが言った。僕は、なんだか恥ずかしかったので「ふみゅう……」という曖昧な返事をした。
 シヴイさんは「犬郎さん、僕を大谷さんだと思ってください」と言って手を差し出した。
 犬郎さんは「それは無理ですよ。大谷さんはこんなに汚くないよ! シヴイさんと大谷さんの共通点は、地球人であるということだけですよ」と言って拒んだ。
 汚いという言い方はいかがなものか、シヴイさんは繊細だから傷付いてしまうのではないか、と思ったが、シヴイさんはクールな表情をくずさなかった。《心の中では傷付いているに違いない。シヴイさんは大人だなあ》と僕は思った。
 40がらみのウエイトレスがやってきて「お水をお注ぎします」と言った。テーブル席ではなく座敷だったので、ウエイトレスはしゃがみこんで水を注いだ。開いたスカートの下に白いふとももが見え、僕は照れた。梨華ちゃんのももチラを想像してしまい、さらに照れた。
 僕が「やっぱり行くのやめようかな」と何度も呟いていたら、二人は「逃がしませんよ。会場推しすることに決めました」と言った。

 上野から乗った電車の中で、「クラブジャズのことがよくわからないんです」とシヴイさんが言った。「ただのジャズとどこが違うのだろうか?」
 「クラブハウスで奏でるジャズを、クラブジャズというのではないでしょうか」と僕は言った。
 「そうかもしれませんね」とシヴイさん。
 「クラブなんちゃらというのは他にもあるんですか。クラブジャズの他に。例えばクラブロックとか」と僕は尋ねた。
 「ああ、クラブロックはありますよ」とシヴイさんは言った。
 「えー、そうなんですか?」と犬郎さんが訝しげに言った。

 駅のホームで、犬郎さんはシヴイさんの手を両手でがっしりと握った。
犬郎さん「いつも応援しています」
 シヴイさん「あ、どうもありがとうございます」
 二人とも、すばらしい笑みを浮かべていた。犬郎さんの笑みに僕はとても感動した。《これは国宝級の笑みだなあ。僕もこんな風に笑えたらなあ》と思った。
 「ふっち君も握手練習をやってみませんか?」と言われるのを予感した。できれば面白いことをしたいなあと思い、“練習なのに、照れて言葉が出ない”というのを考えた。
 僕は犬郎さんの小さい可愛い手を握り、「あ、あの、あの、あの、あの!!!
 というシーンを頭の中に描いたが、「ふっち君もやってみませんか?」と言われることはなかった。スベらなくて済んだと思いホッとした。でも同時に、笑いを取ることができなくて残念だとも思った。

 東京テレポート駅に向かう途中、「東京テレポート駅にテレポートしたい!」というつまらないギャグが頭の中に発生し、それは口から発声されることを望み、その要求はどんどん強くなっていった。しかし、こんなうんこギャグを言うのはとても嫌だったので、断固として拒否した。ギャグの要求の波が落ち着くと、突然、梨華ちゃんが僕の頭の中にやって来て、にっこり笑って手を差し出した。頭の中の僕はとても緊張し、その手をにぎり、「梨華ちゃん、好きだよ!」と言って、梨華ちゃんから離れた。しばらく暗いトンネルを歩いていると、前方に梨華ちゃんが待ち受けていて、僕はとても緊張し、その手をにぎり、「梨華ちゃん、ずっとずーっと応援してるよ!」と言って、梨華ちゃんから離れ、暗いトンネルを歩いていると、前方にまた梨華ちゃんがいた。

 もうすぐテレポート駅につく。僕は自分が挙動不審になっているような気がした。どこに視線を置けばいいのかよくわからなかった。挙動不審を鎮めようと意識すればするほど挙動不審になっていくような気がした。このままでは気が狂うのではないだろうかと思った。気が狂って、電車とホームの間の細長い隙間にやたら入り込みたがったりするのではないだろうかと思った。
 僕は梨華ちゃんから離れ、暗いトンネルを歩いていると、前方にまた梨華ちゃんがいた。

 地上へと向かうエレベーターの中で、メロンむしゃむしゃ犬郎さんが、シヴイさんの手をがっしりと両手で握りしめ、真剣な顔つきで、「いつも応援してます。好きです」と言った。シヴイさんが畏まった表情で、「ありがとうございます」と言った。すると二人とも破顔一笑し、犬郎さんが「ってね、こんな風に言えたらいいんですけどねえ!」と言った。エレベーターの扉が開いた。

 とうとうハロテン会場Zepp Tokyoに着いた。僕は、色んな事が恐ろしくなり、「やっぱり帰ろうかな」とつぶやいた。シヴイさんが「ここまで来て帰らないでください」と笑いながら言った。「やっぱり帰る」というのは、恐ろしさのために言ったセリフだったが、「“会場の目の前にまで来て帰りたがる”というのはちょっと面白いのではないか」という気持ちも幾らかあったので、笑ってくれて嬉しかった。嬉しさによって恐ろしさが少し和らぎ、逃げるのをやめることができた。僕は二人にお礼を言って別れ、入り口の列に並んだ。

 会場に入るとき、「ドリンク代の五百円をください」とスタッフの人に言われた。僕はしどろもどろになりながら後ろに下がった。財布の中を見ると、五百円玉がなかったし百円玉もなかったので、パニック状態に陥った。しかし、千円札を出せばいいことに気が付き、お札を渡した。お釣りと、ドリンク交換メダルを受けとった。
 中に入ると、薄暗いなかを右に行ったり左に行ったりした。間違えて女子トイレに入りそうになった。手に持っている五百円玉とメダルが邪魔に思えたので、それらをサイフの小銭入れに入れた。ドリンク売り場が目に入り、飲み物を入手しようと思った。サイフに入れたはずのドリンク用メダルを探したが、薄暗くてよく見えなかった。メダルは一向に見つからなかった。もしかしたらサイフには入れなかったかもしれない、と思い、ポケットや色んな所をまさぐったが、見つからなかった。いや、確かにサイフに入れた、間違いない、と思い、もう一度サイフの中を探したが、ドリンクメダルは見つからなかった。《水を飲めないのは辛い。喉が渇くし、口の中を清潔に保つことが難しくなる》と思ったが、もうすぐ開演だし、諦めるしかなかった。

 トイレに入っておしっこをする。切れがとても悪い。もう終わりかなと思うとまた出る。「もうすぐ開演です! 席についてください!」というアナウンスが繰り返されるのでかなり焦ったが、残尿でズボンが濡れそぼるのだけは嫌だったので、ゆっくり時間をかけておしっこをした。
 洗面台に立ってを見た。髪が乱れていたので水をつけて直した。「この男は握手会にそなえて髪形を整えている。推しメンにカッコイイ姿を見せようとしている」と思われるのが嫌だったので、髪はまだ完全ではなかったが、すぐにその場を離れた。

 席に座ると、とりあえず上着を脱いだ。周りを見てみると推しメンのTシャツを着ている人はきわめて少なかった。だからかなり恥ずかしく、なかなか勇気が出なかったが、梨華ちゃんを勇気付けたかったし、梨華ちゃんに僕を見て欲しかったので、梨華ちゃんのピンクTシャツをずばっと着た。
 「申し訳ありません、準備に手間取り、開演が10分遅れます」というアナウンスがあり、座席の真ん中らへんから幾つかの罵声が飛んだ。「ふざけんなよおい!」みたいな罵声が。10分遅れただけでそんなに怒らなくてもいいだろうと思った。その不良ヲタたちはしかし、罵声を飛ばしたあと、「ヒッヒッヒ!」と笑った。酔っているのだろうか。いたずらな気持ちで怒るというのは、10分遅れただけで本気で怒ることよりも、だいぶ悪質な行為であるような気がした。

 梨華ちゃんは、髪の毛を後ろで一つにまとめて、前髪はまゆげのところでそろえていた。紫色の10周年記念Tシャツを着て、お尻が見えそうなくらいに短いGパンをはいていた。《梨華ちゃんの今日の髪型かわいいな。笑顔もステキだな。足がとてもきれいだなあ。梨華ちゃん……好きだよ! 大好き!》と心の中で言った。

 “客の中からクイズ王を決めちゃおう!ゲーム”が開始された。僕は3問目で脱落した。
 梨華ちゃんが自分に関する問題を出した。一枚の写真がスクリーンに映し出された。写真の梨華ちゃんは、濃いピンクのドレスを着て、右手を天に突き上げている。その右手には細長い何かが握られているが、ぼかしが入っていて識別することができない。「さて、わたしは何を握っているでしょうか?」と梨華ちゃんは言った。そのとき、さっきの不良ヲタが叫んだ。
 「酒! 酒!」
 梨華ちゃんが握っているのが酒だったらちょっと面白いような気がしたが、僕はそう思った自分をコラー!と叱りつけた。梨華ちゃんを酒乱よばわりする彼らを許してはいけない、と思った。「酒! ジンロ!」という叫び声が上がった。僕はそいつらのもとへ駆け寄って、「お前らいい加減にしろ! 調子のんな! 酔ってんのはお前らのほうじゃないの? 梨華ちゃんを愚弄するな! さっさとここから出て行け、この不良たちめ!」と怒鳴りつける、という想像をした。《あのような不良と笑顔で握手しなくちゃならないなんて、梨華ちゃんは可哀想だ》と思った。しかしまた、《僕のような精神異常者と笑って握手しなくちゃいけないなんて、同じくらい可哀想だ》とも思った。

 「10周年記念曲を歌うとしたらどんなタイトルの歌を歌いたいですか」という問に対し、三好さんが、「ロマンティック・ロマンス」というようなことを答えた。さらに「これはみなさんと一緒に踊るための曲です。ライブではみなさんも踊っていらっしゃるじゃないですか。ロマンスっていうんですよねあれ。むしろヲタ芸というべきでしょうか」的なことを言って、会場は騒然となった。梨華ちゃんは可愛らしく苦笑いをした。左前方には、ここぞとばかりに高速ロマンスを披露し、自分の恥を会場にばらまいている大ばか者がいた。そして例の不良ヲタたちは、「えりか、それはNG! それはさすがにNG!」と、不良のくせになぜか善良なことを言った。僕はそいつらのもとへ駆け寄って、「NGなのは、あなたたちの方ですからあ! 残念!」と言ったが、その後の「〜〜斬り!」の「〜〜」を何と言うべきかが思いつかなくて居たたまれなくなり、泣きながら走り去っていく、という想像をした。まいちんが「ロ・マ・ン・ス!って叫んでますよね」と言った。梨華ちゃんヲタ芸について何か言って欲しいと思った。何も言わないでほしいとも思った。梨華ちゃんはただ笑っているだけで、何も言わなかった。僕は残念に思い、同時に安心もした。

 クイズのときに使用したフリップをプレゼントするというコーナーになって、「さあ、みなさん、チケットの半券を取り出してください」と司会のおしゃれ男子が言った。ゆきどんが、四角い箱に手を突っ込んで中でグルグルまわし、一片のきれを取り出した。一階の人が当った。アヤカ、まいちん、岡田ちゃん、三好さんも一階を引き当てたが、僕の番号は読み上げられなかった。梨華ちゃん以外のフリップが当選したら、そのヲタの人に申し訳ないので、当らなくて安堵した。梨華ちゃんの番になった。ドキがむねむねした。司会の男子が「二階の人にも当ててあげてください!」みたいな感じのことを言った。梨華ちゃんは腕をぶん回し、勢いよく箱に手を差し込み、ヤッ!とばかりに切れを取り出すと、ふにゃっとした残念そうな顔をした。しかし僕の心はうきうきした。《きっとまた一階なのだろう。もしかしたら僕の番号を言うかもしれないぞ》と期待した。しかし梨華ちゃんの口から出た言葉は、僕を落ちませた。梨華ちゃんに選ばれなかったことが、とても切なかった。選ばれないのが普通だということはわかっていたが、それでもなお。

 ファンのみんなに感謝をしようと誰かが言い出して、まず、ゆきどんがあいさつをした。
 次にアヤカちゃんがスピーチを始めた。「このメンバーでイベントができるのは嬉しい」と言った。「みんな私生活でもよく会うんです」と言った。梨華ちゃんはにこにこしていたが、なんとなく挙動不審だった。《梨華ちゃんはこのメンバーとそれほど仲が良くないのかもしれないな》と思った。アヤカちゃんはとても丁寧な言葉でしゃべっていた。《礼儀正しい子なんだなあ》と思った。《梨華ちゃんとアヤカちゃんがもっと仲良くなったらいいなあ》

 まいちんがスピーチを始めた。《まいちんは昔からこんなに面白かっただろうか。たいして面白くなかったような気がする。どうしてこんなに愉快な人間になったんだろう。ヘキサゴンに出場すると、愉快な人間が育まれるのだろうか。その可能性は高そうだ。ヘキサゴンに出るようになってから、あんなに楽しい人間になったのだから。僕もヘキサゴンに出れば、あのような愉快きわまる人間に変身できるかもしれぬ。笑いをとれる男になれば、梨華ちゃんに好いてもらえるかもしれぬ。ヘキサゴンに出場したい。でもどうすれば出場できるのだろう。コネ……! テレビ局に勤めている友人に土下座して頼めば、なんとかなるかもしれない。ヘキサゴンに出してくれなければ死んじゃう!と脅迫すれば、より確実だろう》
 まいちんのスピーチが、大爆笑に包まれながら終わった。次の人はすごくやりにくいだろうなと思った。

 岡田ちゃんと三好さんを経て、梨華ちゃんの番になった。梨華ちゃんは、コンサート前に読み上げる標語のことを語った。最後に、標語の通りのことを読み上げた。標語のセリフではなく、自分の言葉で話してほしかったけれど、標語を読み上げるなんて梨華ちゃんらしいなあ、と思った。梨華ちゃんの真面目な部分を見ることができて僕は十分に満足だった。梨華ちゃんのことを、もっと好きになった。そして歌が歌われた。

 ゆきどんが最後の挨拶を喋りはじめた。
 梨華ちゃんの番になった。梨華ちゃんは、お茶目なことを色々と話して、「ありがとうございました!」と言い、みんなが拍手をし、僕も拍手をした。梨華ちゃんは「最後にもう一度、ハッピー!」と言った。僕はそれまでノリノリやアゲアゲになったりせず、節目に拍手をする以外は突っ立っているだけだったので、今更「ハッピー!」のアクションをすることにかなりの抵抗があったが、僕はその時けっこう盛大に拍手をしていたため、ハッピーだけをしないのはとても変であるような気がして、でもハッピーをするのは恥ずかしくて、結局は極めて弱々しい“ハッピー!”を行うことになった。
 《隣の人や後ろの人は僕のことをどう思っただろう》と思った。《アクションを起こしたことを不審には思わなかっただろうか。横の人や後ろの人は、やるならちゃんとやれ、弱々しいハッピーなど見たくない、と、心の中で僕に罵声を浴びせはしなかっただろうか》
 僕は「ごめんなさい、恥ずかしい、ごめんなさい、恥ずかしい、生まれてごめんなさい」と小さく呟きながら、体がほてっていくのを感じた。ふと、《そういえば演歌がなかったなあ》と思った。《ゆきどんは演歌においてもっとも魅力を発揮するのに、演歌を歌うことができないなんてかわいそうだなあ。ゆきどんのファンは演歌を聴きに来たのではないだろうか。ゆきどんのファンもかわいそうだなあ》

 とうとう握手会の時間になった。梨華ちゃんは「やったー! 握手会だー! わーい!」みたいな楽しげな動きと表情を見せた。本当にそうなの? 本当はあんまりやりたくないんじゃないの? あの不良ヲタや、破廉恥おっさんや、さまざまな色の花が頭の中に咲いている僕とは、握手をしたくないんじゃないの? 仕事だから渋々なんじゃないの? そのリアクションは、やけっぱちというか、やけくそというか、もうどうにでもなれというか、そういうことなんじゃないの?と思ったが、梨華ちゃんを疑ってしまったことを申し訳なく思った。《ごめんね梨華ちゃん、喜んで握手してくれるなんて、とても嬉しいよ。梨華ちゃん大好き!》と、楽屋に戻って笑顔で準備しているはずの梨華ちゃんに心の言葉で語りかけた。

 ステージの上で握手会をやるなどという無茶なことを司会の人が言って、僕はびっくりした。《衆人環視のもとで梨華ちゃん握手したくない》と思った。《そんなのって恥ずかしすぎる。もっと人気のないところでやってほしい》
 しばらくして梨華ちゃんがやってきて、机を両手でドーンと叩き、やる気のあるところを観客に見せつけた。本当にそうなの? 本当はあんまりやりたくないんじゃないの? 例の不良ヲタや、禿げを帽子で隠してるおっさんや、お花畑を頭蓋骨で隠している僕とは、握手をしたくないんじゃないの? そのリアクションは、やけく……梨華ちゃんを疑ってしまったことを申し訳なく思った。《ごめんね梨華ちゃん、そんなにやる気まんまんだなんて、すごく嬉しいよ》と、ヲタたちと握手をしている梨華ちゃんに心の中から語りかけた。その時、梨華ちゃんのところで粘っているハッピ青年の姿が目に入った。警備員に引き剥がされた彼は、両手をメガホンがわりにして、「愛してるぞー!」と大声で叫んだ。それを見た観客は「いいぞー!」「最高!」「ヒュー!」「ロマンチック!」みたいな声を次々に投げた。彼はその時、あたかもヒーローのようになっていた。しかし彼をヒーローと呼ぶことに僕は抵抗を感じた。観客からの声援によって、彼は単なるピエロと化しているように思えた。観客さえ黙っていれば、と思った。客からの声援さえなければ、あの光景はとても美しかったのにと。

 僕はついにステージに立った。ピンク色の梨華ちゃんTシャツを着ている僕は、普段着の人が多い中でとても目立つ。梨華ちゃんは僕から見て一番奥にいる。流れがものすごく速い。列はどんどん進んでいく。前の人がゆきどんの前でキリギリスのポーズをやっている。ゆきどんが目の前に現われる。上着の入った巨大なバッグで左手はふさがっていたので、右手だけで握手をする。「演歌の道を極めてください!」と言うつもりだったが、「がんばってください」と震える声で言う。アヤカちゃんが現われる。「Hello! I love your song!」と言うつもりが、「がんばってください」と弱々しい声で言う。まいちんが現われる。「笑顔が素敵ですね!」と言うはずが、「がんばってください」と消え入りそうな声で言う。岡田ちゃんが現われる。「岡田キックが好きです!」と言うつもりが、「がんばってください」と死にそうな声で言う。三好さんが現われる。「ダンスのキレ味が好きです!」と言う予定だったが、「がんばってください」と掠れた声で言う。梨華ちゃんが現われ、「ずっとずっと応援してます」と言おうとしたが、列の流れる速さを考えたら「ずっと」を二回言うのは難しいような気がし、一回に減らすことに決め、そのぶん一度の「ずっと」に力を込めようと思い、僕が右手をさしだすと梨華ちゃんは僕の手を小さい華奢な手で優しく包みこみ、僕が「ずっと応援してます」と言うと、梨華ちゃんは、押し流されていく僕の目をしっかりと見すえ、笑顔で「はい、ありがとうございます!」と言い、僕の右手をキュッと握りしめた。