その8

 舞台が行われる御園座(みそのざ)と、その近くの白川公園の場所をパソコンの中に住むグーグル大先生に教えてもらっていた私は、名古屋駅前の漫画喫茶から歩いて向かいました。まだ午前9時くらいだったが、太陽が素晴らしく照り付けていたため、歩きながら汗が滲んできました。私は、前田敦子女史がCMに出ていることで有名なジーユーで買ったグレーのカーディガンの前のボタンを外し、ゆっくり歩を進めていった。いやに巨大な交差点を渡っているとき、チャリンコに乗った男の人が、パックのオレンジジュースを落としてしまい、黄色い液体が横断歩道の上に豪快にぶちまけられた。その黄色い液体は、素晴らしく照りつける太陽の光をあびて、白い輝きを放っていた。僕はその大事件を見て、とくに声をかけるでもなく、無表情のまま黒目を動かした。チャリンコに乗ったその男性は、「しまった」という顔をしてUターンし、オレンジジュースのパックを拾い上げ、黄色い液体をそのままにして走り去っていった。

 交差点を渡りきって、御園座へ向かって歩いた私は、先のほうに御園座らしき建物を発見した。その手前にはコンビニがあった。「もしかしてこのコンビニに、梨華ちゃんが来たりしていないだろうか。いたらどうしよう」と思い、ガラス越しに店内をのぞいてみたが、梨華ちゃんはいなかった。まあそりゃそうか、もうすぐ公演が始まるし、いまごろ着物を着ているはずだし、梨華ちゃんがコンビニに買出しにくるわけがないか、と思って御園座へ向かった。

 インターネットでチケットを購入していた私は、チケット発券機で発券してもらわなければいけなかったので、その機械がある場所へ行った。そこでクレジットカードを差し込むと、すぐにチケットが吐き出された。座席は前もってわかっていた通り、2階2等席、7列13番だった。そうである。2等席を購入したのである。16,000円くらいの特別席にしようかすごく迷ったけど、国民年金保険料のこともあり、8,000円の2等席にしてしまっていた。2階7列だから、梨華ちゃんは遠くて肉眼では表情がよく見えなかったし、声も聞こえにくいときがありました。がっつりマイクを通してるわけじゃなく、舞台の前端にマイクが置いてあった(たぶん)ので、2階だとやや声が遠く感じられました。

 チケットを手に入れた私はとりあえず安心し、御園座の入口の方に歩いていきました。そのあたりには、着物を着た上品なご婦人たちが散見されました。ああ、こういう人たちが来るような舞台なんだなあ、僕はちょっと場違いな感があるなあ、と居たたまれなくなっていると、壁に背をもたせて座り込んでいる30代前後の男性を発見しました。見るからにヲタっぽかったので、あ、梨華ちゃんヲタだ、と思いました。相手も、僕のことを梨華ちゃんヲタだと思ったかもしれません。でも僕には梨華ちゃんヲタの友達が一人もいないので、もちろんその人と面識はなく、声をかけなかったし、かけられることもありませんでした。

 そのまま御園座の壁沿いを歩いていくと、細雪のポスターがありました。艶やかな着物を着た梨華ちゃんの姿も、そこにとうぜん写っていた。僕はそのポスターを記念に携帯カメラで撮影しようと思ったが、近くで何やら作業をしている黒服の男がいたので、とりあえず遠くを見つめながら一度ポスターの前を通り過ぎた。黒服の男は、会議室に置いてあるような茶色いテーブルの上に、引き出物のようなものを並べていた。その周囲には着物を着た婦人たちが集まりそうな感じになっていた。一度素通りした僕は、ある程度進むと、体を反転させて、再び細雪のポスターににじり寄った。テーブルの近くで作業をしていた黒服の男が僕を見ているような気がしたが、気にしないようにした。「僕はべつに悪事を働いているわけではないのだから、この黒服の男にどんな目で見られようが、気にする必要はまったくない。堂々とポスターを見ればいいし、堂々と写真を撮ればいい」と自分に言い聞かせながら、携帯をポケットから取り出し、ポスターをファインダーに収め、撮影ボタンを押した。どのように撮れたか確認しようとしたが、真っ昼間であるため、光が画面に反射してほとんど視認できなかった。うっすらと梨華ちゃんの着物姿が窺えたくらいのものだったが、まあ問題ないだろう、夜になったら、きっとクッキリ写っていることが確認できるに違いない、それはそれでロマンチックだよね、と思った。ポスターを観て、撮影も済ませた僕が次にするべきことは、ヒゲを剃ることであった。さっきの漫画喫茶で調べておいた白川公園に向かって歩いていった。