その10

 ヒゲを剃った後は順調に歯磨きをして顔を洗い、とてもすっきりした僕は、近くの自動販売機で六甲のおいしい水を購入した。ごくごくと飲んだ。暑さによる汗と精神的緊張による汗でけっこう水分を失っていた僕の体に、それはどんどん染み渡っていった。

 まだ舞台の開演まで1時間くらいあった。僕は何という目的もなしに、閑散とした白川公園の真ん中らへんを目指してフラフラと歩きはじめた。公園の左奥のほうにあいているベンチを発見し、そちらにフラフラと方向を変えた。ベンチに座り、コンタクトをしなければいけないことに気が付いた。メガネはすでにかけているのだが、コンタクトをつけた方がよりよく梨華ちゃんの顔が見られる。僕は1日使い捨てタイプのコンタクトをかばんの奥深くから取り出すと、メガネを外してベンチの端に置いた。微妙に手間取りながらコンタクトを入れると、公園の景色がよりクッキリと見え、世界が美しくなったような気がしたが、目の前にいる醜いおっさんはより醜く見えたため、プラマイゼロといったところだった。

 小さくてかわいらしい犬が小刻みな足取りでやってきた。鎖はついていなくて、自由を満喫しているように見える。その犬の飼い主は、僕からやや離れたベンチに座っている若い女性のようであった。犬は、小刻みに走りながら、僕にちょっかいを出したそうにチラチラとこちらを見ていた。

 ここは一つ、この白くてフワフワな犬を笑顔で撫でながら、おーよしよし、かわいいでちゅねー、というようなことを結構な声量で言ったほうが人間的なんだろうなあ。あの飼い主の女性からも高評価を得られるに違いないだろう。でも恥ずかしいな。いかにもそういう人間臭さをアピールしているみたいで、浅ましいような気がする。しかし、本音を言えば、このかわいらしいワンコをもふもふしたい。ちゅっちゅってしたいし、いっそのこと、犬と自分の境目がなくなるほどめちゃくちゃに絡み合いたい。犬が好きなんだ俺は。オスだろうか、メスだろうか。めちゃくちゃに絡み合うとしたら、オスのほうが逆にやりやすいぞ。メスだったら女性器を変に意識してしまって、心からそういった戯れを楽しめないから、などと考えた。

 僕は、犬からやや離れたところで見守っている飼い主の女性の存在を意識し、ぎくしゃくと、笑ったような笑わないような変な顔をしながら、その小さな犬を見つめた。しばらくすると犬は急に動き出し、軽快な足取りで向こうに行ってしまった。僕はその犬の後ろ姿を見つめながら、むかし飼っていた犬、ロッキーちゃんの後ろ姿を思い出し、少し寂しい気持ちになった。それと同時に次のようなことを思った、そばにいた若い女性は、僕を愛想の悪い男だと思ったかもしれない、人間的ではない男だと思ったかもしれない、と。しかし、そんなことは気にしないようにした。僕は梨華ちゃんの舞台を観にきたのであって、犬を連れた若い女に好印象を持たれ、なんか仲良くなり、なんかお茶をすることになり、なんかホテルに行って、なんかセックスをするためにここにいるわけではないのだ。僕は空をまぶしげに見上げながら、そう心の中で呟いた。