昼公演では、熱愛報道の件については触れられなかったようです。じゃあ、夜公演では触れられるのかもしれない。熱愛にとどまらず、それ以上の報告があるのかもしれない。僕はそう覚悟していましたが、覚悟を決めたからと言って、恐ろしさから逃れられるわけではありませんでした。梨華ちゃんが、「私の近況について話しますね」とか、「みんなも知ってると思うけど…」とか言うたびに、僕の体は硬直して鼓動が速くなりました。でもその後に続く話は、ツムツムなどLINEゲームの話だったり、愛犬のひめちゃんの話だったりしたので、ほっと胸を撫で下ろしました。僕の席の目の前には、太い柱が屹立していました。梨華ちゃんの姿は四分の三くらいしか見えなかった。僕は基本的に、左目で梨華ちゃんを見て、右目では柱を見ていました。左目だけで見る梨華ちゃんは、少しぼんやりしていました。恋INGが歌われた時は、梨華ちゃんがイスに座っていたことにより、僕の位置からは梨華ちゃんの顔が見えませんでした。僕は、イスに腰かけた梨華ちゃんの左半身を生で見、顔や全身を、右の壁に掛かっているテレビ画面で見る、という見づらい状況を強いられました。恋INGを歌っている時の梨華ちゃんは、僕にとって3次元であると同時に2次元でもありました。顔の見えない3次元の梨華ちゃんと、顔の見える2次元の梨華ちゃんでした。そんな中、梨華ちゃんの体からは、心のこもった歌声が発せられ続け、僕はそれを聴き続けました。今実際恋愛中、と梨華ちゃんは歌っていました。それはただの歌詞に過ぎないのか、本心を歌詞に代弁させているのか、どちらなのだろう。梨華ちゃんの声をしっかり手に取って、声の扉を開けて、その中にある心を覗き込みたい。そう思いましたが、なかなか手に取ることができない。梨華ちゃんの繊細な歌声は、するすると僕の手を逃れていく。でも繰り返しチャレンジしているうちに、その声たちの一つをやっと摑むことができる。僕はその声の扉を開けようとする。早く開けなくてはならない。その声をいつまで摑んでいられるかわからない。形を変えて逃れ出ていってしまうかもしれないし、ふっと消えてしまうかもしれない。僕は急いで、しかし丁寧にその声の扉を開ける。小さな扉が開かれる。僕はその長方形の中をのぞき込んでみる。そこには梨華ちゃんの心が確かに存在している。柔らかそうな白っぽい、丸みを帯びた物体が、ゆらゆら揺れている。その物体を僕は見つめる。見つめているうちに、その微かに光る白が僕の目の中に入ってくる。そして僕の心の中に届いてくるのを感じる。僕は今、梨華ちゃんの心と一つになっているように感じる。でも、梨華ちゃんの本心がどういうものなのか、よくはわからない。もう少しだ。もう少し、梨華ちゃんの心と繋がっていられたら、梨華ちゃんの本当の心がわかりそうだ。しかしその前に、梨華ちゃんの声は僕の手の中をするすると逃れ出て行ってしまった。気が付けば、恋INGの演奏は終わっている。僕の心と、梨華ちゃんの心は別れてしまった。けれど僕の心は、梨華ちゃんの心と一つになった時の余韻を感じている。たしかに梨華ちゃんの心はここにあったのだ。僕の心の中に。