その19 梨華ちゃんの大して面白くもないお話

 梨華ちゃんは曲々の合間におしゃべりをした。それはひどく長いが、耳に心地よいものだった。僕のお母さんはしばしば、オチのない延々と続くたいして面白くもないお話を聞かせてくれる。僕は死んだような顔でそれを左耳から右耳へと通過させる。梨華ちゃんの話はお母さんのそれと同じようであって全く違うものだった。僕は梨華ちゃんのオチのない延々と続くたいして面白くもない話を聞きながら、心底うっとりとしていた。心の中に清冽な湧き水がするすると流し込まれているかのようだった。お母さんの話といったい何が違うのか、よくわからなかったが、よくわかる必要もとくにないように思われた。僕は心地よさに頭をぼんやりとさせながら、ただ梨華ちゃんのゆるゆると長いお話を耳に入れていった。したがってお話の内容はよく覚えていないのだが、ひめちゃんの話をしていたことは間違いない。ひめちゃんというのは、梨華ちゃんの愛犬である。1年くらい前から飼い始めたように記憶しているが、半年前くらいからかもしれない。細かいことはグーグル大先生にでも訊いていただきたい。梨華ちゃんはひめちゃんを我が娘のように可愛がっている。自分のことをママとまで呼んでいる。梨華ちゃんのブログのコメント欄では、「独身の女性が犬を飼うと、婚期が遅れるらしいですよ」という読者からの余計なお世話的なコメントが散見される。もし梨華ちゃん婚期が遅れたら僕の場合、8割がた嬉しい。しかし2割がたは悲しい。僕はどうせ梨華ちゃん結婚なんてできないんだけど*1梨華ちゃん結婚しなければ心が傷つくこともない。僕だけの梨華ちゃんにはならないにしても、みんなの梨華ちゃんでいてくれる。だから嬉しい。でも梨華ちゃんには、素敵な旦那さんと娘3人とでタイに旅行に行くという夢がある。昔のスピリッツのグラビアのコメントでそんなようなことが書いてあった。僕は梨華ちゃんのことが好きだから、梨華ちゃんの夢は叶ってほしい。幸せになってほしい。だから、2割がたは悲しい。いや、本当は1割がたの悲しみにとどまるかもしれない。それどころか、5分くらいでしかないかもしれない。偉いファンの人たちには怒られそうだが、正直なところ、僕の心の中の9割5分の部分は、梨華ちゃん結婚してほしくないと思っている。少なくともできるだけそれが先になってほしいと思っている。あの、あの梨華ちゃんが誰かのものだけになってしまうなんて本当にイヤじゃ。イヤじゃイヤじゃイヤじゃ〜*2梨華ちゃんはライブでよく、客席のあちこちを指差しながら、「あなたの、あなたの、あなたの、あなたの、あ、ごめんなさい。あなただけの! 石川梨華です!」って言いいます。僕はこのMCがとても好きで、このときは梨華ちゃんとできるだけ目が合うように努力し、その言葉を胸いっぱいに吸い込み、「ああ、僕だけの梨華ちゃんなんだ!」ってなり、そのことを事実としてほとんど信じてしまえるのだが、やはりそれは完全な事実ではなく、小さな穴が開いている風呂敷のようなものであり、それに包まれている僕には小さな穴から外の残酷な景色が見えてしまい、しかもどんどんその穴は大きくなる。見たくなければ目をつぶればいいと人は言うかもしれないが、怖いもの見たさなのか何なのか、どうしても穴から外を見てしまうのである。いつか梨華ちゃん結婚したなら、豪華なホテルで催される披露宴で梨華ちゃんは言うだろう。IT企業の若社長だか何だか、プロスポーツ選手だか何だか、そういった種類の新郎に向けて。「あなただけの石川梨華です」って。名字を変えて言うかもしれない。「あなただけの石川梨華です。あ、ごめんなさい。あなただけの、鬼瓦梨華です」みたいに、新郎の名字で言い直したりするかもしれない。それで披露宴は爆発的に盛り上がるのだろう。つんく先生は紅潮した顔で「イエーイ!石川おめでとー!」と声の限りに叫ぶだろう。新郎はあの梨華ちゃんからそんなことを言われて、恐ろしいほどの幸福に包まれ、恍惚とした表情を浮かべて、昔いっしょにバカをやったような旧友たちに「照れんてんじゃねーぞ! この幸せもの! なんか言うことねーのかよ!」なんてからかわれるのだろう。そしてその場に僕はいやしないのだろう。呼ばれないのだろう。家で一人で梨華ちゃんとの2ショット写真を見ながら声を押し殺して泣いているのだろう。呼ばれても困る。呼ばれたら僕は行くのだろうか。梨華ちゃんファンとしては行かねばならないのだろうか。梨華ちゃんが人生でおそらくもっとも幸せになる瞬間に、両手いっぱいの祝福のバラの花束、梨華ちゃんの好きなバラの花束をかかえて、その真っ白い輝きの中に満面の笑みで立っていなければならないのだろうか。そうであるべきだ、と偉くて心優しいファンの人たちは言う。自分の発言に何の疑いも持っていないかのような顔、どこに出しても恥ずかしくない正論を言っているんだというような顔で。好きなアイドルの幸せは祝福するべきだし喜ぶべきだと言う。僕はそうありたいんだけど。本当にそうありたいんだけど。心からそうありたいんだよ。だけど無理なんだ。無理だよ。だって、僕の好きは、偉いファンの人たちが言うような好きとは、まったく違うものなんだから。僕は普通に好きになったつもりだよ。だけど、相手が大学の友だちとかではなくて梨華ちゃんとなると、普通じゃなくなっちゃうんだね。普通だとはみなされないんだ。そしてバカにされ、説教される。偉くて優しい素晴らしい人たちに。どうしてだろう。不思議だね。わかんないよ。わかりすぎるくらいわかるけど、ぜんぜんわかんないよ。

*1:「どうせ僕は」みたいなことを言う男は女に嫌がられますので注意してください。ミクシニュースで読みました。

*2:篤姫ナンバー1という映画で、梨華ちゃんがこういう風にイヤイヤするシーンがあって可愛いです。